三六式無線電信機とは? わかりやすく解説

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三六式無線機

(三六式無線電信機 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 01:55 UTC 版)

三六式無線機(さんろくしきむせんき、公式名称は三六式無線電信機)とは日本海軍日露戦争当時以降使用した無線機である。三四式に次いで制式採用された日本海軍で二代目の実用無線機である。1903年(明治36年)に採用された。非同調式の普通火花送信機である。

採用後直ちに戦艦(「三笠」など)や巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、日本海海戦までに仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備された[注 1]。実物を忠実に復元したものが横須賀の記念館「三笠」無線電信室に、またそのレプリカが、無線通信歴史展示室で展示されている。

2017年9月5日に国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第00228号として登録された[1][2]

開発の経緯

1900年(明治33年)頃、日本海軍は、無線機開発に着手し、電気試験所の松代松之助主任と旧制第二高等学校の木村駿吉教授らにより、千葉県の津田沼と横須賀の大津間の通信距離54kmで実験が行われた。1901年(明治34年)、三四式無線機が誕生した。通信距離は、70海里(約100km)。

1902年(明治35年)、日本海軍は、横須賀、田浦の横須賀海軍工廠に通信技術者を集めて無線機開発に取り組ませた。当時の艦隊行動範囲から80海里の通信を可能にする必要があった事と、使用されていたインダクションコイル(下図:誘導コイル)が当時の日本では量産が出来なかった為、価格や保守の観点から可能な限り国産部品のみで構成する事が望ましいと考えられ、改良が検討された。 結果として、性能面でシーメンス社のリレーを採用するといった改良が加えられた事や、調達面で安中電機製作所(現アンリツ)がインダクションコイルの国産化に成功し、200海里の通信と部品の安定供給が可能となった。

1903年(明治36年)、三六式無線機が誕生し、通信距離が1,000kmに達した。日本海軍は、全艦船に搭載するべく無線機工場を設置し昼夜兼行で製造した。

日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日午前2時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船「オリョール」の灯火を発見、更に接近し敵大艦隊の存在を確認、4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報を送信し、この電報は巡洋艦「厳島」による中継を受けて連合艦隊司令部が座乗する旗艦「三笠」へ到達した[3]。これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、報告の電報を送信し[注 2]、戦闘が開始された。戦闘中も連合艦隊が無線電信を有効利用した事は、戦闘の有利な展開に大いに寄与した(なおロシア艦隊側では日本側の無線通信の存在は確認しており、やはり装備していた大出力の無線機で、いわゆるジャミングと言われるような妨害を行ったらどうか、という具申があったが、やるな、という命令があり行われなかった、という)。

構造

非同調式の普通火花間隙による火花送信機コヒーラ検波器の受信機からなる。まだ同調回路を有さなかったため送信周波数や受信周波数はアンテナの長さで調整した。送信電波はアンテナ回路により生まれるピーク周波数を持つが、それは先鋭ではなく、また受信機も同様に先鋭な選択受信ができず、複数の通信を同一海域で同時に行う事は不可能であった。また受信出力は当時の有線式電信にならい印字式とした。

後継機種

1907年(明治40年)、日本海軍は、三六式送信機のインダクションコイル(誘導コイル)を直流電源と断続器により、あたかも交流のように駆動するのではなく、電源に交流そのものを用いた四〇式無線電信機を完成させた[4]

さらに3年後の1910年(明治43年)には四三式無線電信機を実用化した[5]。これは同調式の普通火花送信機と音響受信可能な同調式の鉱石式受信機の組み合わせであり、三六式に比べて多大の性能向上を達成したものである。1908年(明治41年)に創業した逓信省の公衆通信(電報)サービスでは既に同調式が導入されていたが[注 3]、海軍省としては四三式が最初の同調式だった。

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 最終的には三四式との混在配備であった
  2. ^ 艦上から東京まで、無線と、当時の有線や手交の電報中継路によって中継されたわけであるから、即時に伝わったわけではない。
  3. ^ 銚子無線JCSや天洋丸TTYなど、逓信省の無線は1908年の創業時より同調式だった

出典

  1. ^ 重要科学技術史資料一覧
  2. ^ 三六式無線電信機が未来技術遺産に登録されました
  3. ^ 「極秘 明治三十七八年海戦史 第四部 防備及ひ運輸通信 巻四、第三編「通信」第三章「無線電信」」国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコード C05110109800)
  4. ^ 明治40年6月 海軍省内令第121号
  5. ^ 明治43年4月 海軍省内令兵第18号

参考文献

  • 山本英輔他共著『五十周年記念海軍電波関係追悼集』第一号、電波関係物故者顕彰慰霊会、非売品、昭和30年10月。
  • 海軍省公文書「弓張無線電信ノ件」江口佐世保鎮守府参謀長 、明治45年1月10日~明治45年2月27日、アジア歴史資料センター
  • 海軍省公文書「城山信号所無線電信通信試験成績」、呉鎮機密第四三八号ノ一五 大正元年九月十一日 呉鎮守府参謀長野間口兼雄、アジア歴史資料センター。
  • CQ Ham Radio編集部・編『モールス通信 通信の原点=CW その魅力/運用法/歴史』CQ出版社、1998年。 ISBN 9784789810890

外部リンク


三六式無線電信機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:46 UTC 版)

船舶無線」の記事における「三六式無線電信機」の解説

三四無線電信機のインダクションコイル高価な輸入品だった。1903年明治36年)、安中電機製作所インダクションコイル国産化成功し三四式の改良機となる三六式無線電信機が開発された。海軍は三六式無線電信機を急造し、海軍15艦に装備できたため、1905年(明治38年5月日本海海戦日露戦争)において海軍無電(三六式無線電信機および一部三四無線電信機)が大活躍したのである

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