ドミトリー・フェルケルザムとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 軍人・武士 > 軍人・軍事関係者 > ロシア帝国の海軍軍人 > ドミトリー・フェルケルザムの意味・解説 

ドミトリー・フェルケルザム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 12:56 UTC 版)

ドミトリー・グスターヴォヴィチ・フォン・フェリケルザム(ドミートリイ・フョリケルザム;ロシア語:Дми́трий Густа́вович фон Фёлькерзамドイツ語:Dmitri Gustawowitsch von Fölkersamドミトリ・グスタヴォヴィチ・フォン・フェルカーザム1846年5月11日1905年5月24日)は、ロシア帝国海軍軍人バルチック艦隊の副司令官だったが、日本海海戦の直前に艦上で病死した。

ドミトリー・フェリケルザム

経歴

フェリケルザムが司令官として乗艦した戦艦「オスリャービャ」

ドイツ系1867年に海事学校を首席で卒業。同年4月士官候補生となった。1869年、准尉。1872年、少尉に任官。1884年から1887年フリゲートヴラジーミル・モノマーフ」乗組員。1885年に中佐、1893年に大佐に昇進。1895年から1899年戦艦インペラートル・ニコライ1世」艦長。同時に1899年まで艦隊教育部長。1899年12月、少将に昇進。1900年サンクトペテルブルクで艦砲委員会委員長。1902年バルト海艦隊砲術教育部長。

1904年日露戦争の勃発後、旅順港で日本軍に包囲された第1太平洋艦隊の増援として、ヨーロッパから太平洋に回航されるジノヴィー・ロジェストヴェンスキーを司令官とする第2太平洋艦隊(いわゆる「バルチック艦隊」)が編成され、フェルケルザムはその第2戦艦隊司令官(副司令官格)に任命され、第2戦艦隊旗艦オスリャービャ」に乗艦した。1904年10月にバルト海を出港した艦隊は、アフリカ大陸を周航する隊とスエズ運河を通過する隊に分かれてインド洋に入ったが、フェリケルザムはアフリカ大陸を周航する「オスリャービャ」を一旦降り、スエズ運河を通過する隊の指揮した。

1905年4月に入ると、フェリケルザムの健康状態が悪化。艦隊が南シナ海に入るとますます悪化した。目的地の日本海を目前にした同年5月24日、フェリケルザムは旗艦「オスリャービャ」で病死した。59歳没。事前に定められた信号旗による暗号で、ロジェストヴェンスキーはフェリケルザム死去を知らされた。艦隊の士気に関わるとしてその死は秘匿され、遺体は艦内の冷蔵倉庫に安置され、同僚の第3太平洋艦隊司令官ニコライ・ネボガトフさえもフェルケルザムの死を知らされなかった。

バルチック艦隊は死んだフェリケルザムの将官旗を掲げたまま3日後の日本海海戦に臨み、彼の遺体を乗せた「オスリャービャ」は日本の連合艦隊の集中砲火を浴びてロシア艦隊で最初に沈没した。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドミトリー・フェルケルザム」の関連用語

ドミトリー・フェルケルザムのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドミトリー・フェルケルザムのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドミトリー・フェルケルザム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS