軍令による立法
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軍令による規定された範囲は、陸軍と海軍では相違がある。軍の編制、司令部の官制は陸海軍とも軍令により規定された。学校の官制は、陸軍では陸軍大学校条例(明治41年軍令陸第13号)を始めとして多くの学校の官制が軍令により規定されたが、海軍では軍令制度制定後も、海軍大学校令(大正7年勅令第317号)など学校の官制は勅令により規定し、軍令では規定しなかった。また陸軍においても陸軍士官学校や陸軍幼年学校については、一旦、陸軍士官学校条例(明治41年軍令陸第9号)、陸軍中央幼年学校条例(大正4年軍令陸第6号)陸軍地方幼年学校条例(大正4年軍令陸第7号)などが制定されたが、大正9年になってこれらの軍令は、大正9年8軍令陸第9号により廃止され、ふたたび勅令で、陸軍士官学校令(大正9年日勅令第236号)陸軍幼年学校令(大正9年勅令第237号)が制定された。礼式と懲罰に関しても、陸軍は、陸軍礼式(明治43年軍令陸第5号)、陸軍懲罰令(明治41年軍令陸第18号)など軍令により規定したが、海軍は海軍礼式令(大正3年勅令第15号)、海軍懲罰令(明治41年勅令第239号)など勅令で規定することを変更しなかった。陸軍は、作戦要務令(昭和13年軍令陸第19号)など作戦についても軍令で規定したが、海軍においてはこのようなものを法令として制定はしなかった。 官報、法令全書に、異なった種類の法令等が掲載される場合は、その順が決まっていた。効力が優先すべきものほど、最初に掲載された。詔書、皇室令、法律、予算、予算外国庫の負担となる契約、勅令、条約、軍令の順であり、更にその後に、制令、律令、閣令、省令、府令、庁令、訓令、達、告示の順となった。御名御璽を付して公布されるものでは軍令は最後の扱いである。憲法及び皇室典範は当然、最優先であるものであるが、実際の公布はすべて、他の法令とは別に単独で官報号外で行われた。 個別の法令を区別する番号の事を「発簡区別番号符」というが、陸海軍共通の事項については「軍令第○号」、陸軍・海軍個別の事項は「軍令陸(海)第○号」となる。陸軍では更に軍令の重要度によって「軍令陸甲第○号」、「軍令陸乙第○号」の2種類があった。甲は軍事機密事項であり、動員計画・戦時編制に関わる内容が発布され、乙は秘密事項でこれは平時編制・諸勤務令・礼式の発布等に用いられる。海軍では軍令を細分せずに「内令」という形式で行われた。軍令は、もともと公示すべきものは、官報で公示するとなっており公表はかならずしも必要ではなかった。実際の扱いは、公示するものは、軍令第○号、軍令陸(海)第○号とし、公示しないものを軍令陸甲及び軍令陸乙並びに内令とし、官報にも登載されなかった。また、公示されたものでも野外要務令(明治40年軍令陸第10号)のようなものは、「条文略ス」と官報に掲載され、内容は公示されなかった。明治40年に始まった軍令は陸軍では「樺太守備隊司令部条例(明治40年軍令陸第1号)」、海軍では「防備隊条例(明治40年軍令海第1号)」が最初で、後に発布された物も軍司令部や師団司令部、海軍では鎮守府や軍令部の基本形を定めていたが、実際の編制については軍令陸甲・同乙や内令によって行われた。 軍令は明治40年軍令第1号にあるように、帝国議会はもとより閣議を経る必要もなかった。陸海軍の大臣は現役軍人であり、内閣への帰属意識が低く、運用の実態としても軍令は内閣の統制から外れていた。この事から大正時代に憲法学者美濃部達吉によって批判された。閣議に参加する軍部大臣により軍政として扱われるべき事項が軍令によって定められていることが、その批判の要点である。例えば参謀本部の官制などが勅令に依らず軍令に依っていることが指摘されている。美濃部は軍令を憲法違反ではないとしながら、強い疑問を投げかけた。しかし現実政治で軍令は廃止されることなく1946年まで存続した。 軍令の最終的な発布数は、軍令が11件、軍令陸が545件、軍令海が268件であることが、官報により確認できる。公表されない軍令陸甲及び軍令陸乙並びに内令は、詳細は不明である。
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