中央に仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:34 UTC 版)
州の使者は事務報告のため相国府に赴いた際、司馬昭の前で唐彬の事を称賛し、彼を掾属に推挙した。司馬昭が参軍の孔顥に意見を求めたが、彼は唐彬の才能を妬んでいたため、何も答えなかった。 だが、同席していた陳騫は「唐彬の人となりは私の敵うものではありません」と、笏を持ったまま言った。司馬昭は笑ながら「卿に匹敵する能力を持つ人物ですら得難いというのに、どうして勝っているなどと言えるのか」と言い、ひとまず唐彬を招いて鎧曹属に任じた。 唐彬が司馬昭に謁見した際、司馬昭は「卿はどんな能力を持っているのか」と問うた。唐彬は「郷里においては勉学に励み、古人の事績を深く観察し、言動は天下に及んでも舌禍が無く、行動は天下に及んでも憎まれることがありません」と、啖呵を切った。すると、司馬昭は周囲の者を顧みて「その名は虚りではなかったか」と言い、喜んだ。後日、司馬昭は孔顥に対し「近くで唐彬を見たが、まさしく賢人であった。卿のおかげで危うくこの機会を逃すところであったぞ」と叱責した。 264年、成都に駐屯していた鄧艾が田続に殺された。彼が久しく隴右の地に滞在しており、また士卒からも慕われていたことから、司馬昭は益州の地で動乱が起こることを恐れた。そのため、唐彬を密かに派遣して情勢を探らせた。唐彬は成都での視察を終えて帰還すると、司馬昭に対し「鄧艾は狡猾で妬みが強く、度量が狭く自尊心が強い男でした。また、自らに順従な者を称賛し、直言する者を疎ましく思っておりました。長史・司馬・参佐・牙門といえども、返答が彼の意に添わなければ罵倒されました。規律を正してはいましたが、そこに礼は無く、大いに人心を失っておりました。また、大規模な工事をよく行ない、民に重労働を課しておりました。隴右にては甚だこのことを苦しみ憂えていたため、彼の死を聞くと皆喜び、再び彼のために精を出そうと思う者は誰もおりませんでした。今、諸軍が隴右に至り、内外を抑えるには十分であります。願わくばこの件について、もう何も心配することがありませぬよう」と述べた。
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