斉の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 23:17 UTC 版)
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斉の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。その理由は斉の王田建は相国の后勝(中国語版)の言いなりであったことである。后勝や食客らは秦から賄賂を受けとっていて、秦の都合の良いように提言した。斉は五国(韓・趙・燕・魏・楚)の滅亡を傍観していた。しかし、五国が滅亡すると西の対秦国境に将軍を集め閉鎖した。 そして紀元前221年に王賁率いる秦軍が燕の旧領から南下して攻めた。斉の国都臨淄を包囲し、斉は戦わずして降伏した。これにより秦は中華統一が達成した(衛は紀元前209年まで存続しているが、既に秦の従属国として名前のみの存在になっているために考慮されないのが普通である)。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。
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