位置に関する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)
「邪馬台国畿内説」および「邪馬台国九州説」も参照 「魏志倭人伝」の行程の距離と方角に追従すると、邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつくとするとの説が、古くから知られている。ゆえに、白石も宣長も、原史料に対してさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説(若井敏明の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。若井は、筑後川下流域にあった邪馬台国後裔は仲哀天皇の九州遠征により365年頃に滅亡したとしている。 邪馬台国は魏志倭人伝にあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)(魏志 景初2年(238年))に加え『日本書紀』所引の「晋起居註」に倭女王が晋に泰始2年(266年)に遣使し朝貢したとあることから、3世紀中期に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した「邪馬台国」からヤマトに政権が移ったことになる。「邪馬」は、山(ヤマ)と音訳出来るとの説もある。
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