晩年経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 01:59 UTC 版)
第二次国共内戦では1949年4月10日、溪口に到る。同年軍主力とともに台湾に逃れる。 1950年3月、参謀総長に就任。のち空軍副司令毛邦初の汚職事件に巻き込まれるが、最終的に潔白が証明された。 1954年7月、国防会議秘書長。 1957年、第6代台湾省政府主席(中国語版)となり、任期中に新竹海埔新生地(中国語版)の開発に携わる。また台湾省保安司令部司令兼任。 その後も 総統府参軍長、国家建設計画委員会主任委員など政府・党の要職を務める傍ら、スポーツの発展にも寄与した。 1986年8月29日、 台北市内の三軍総医院(中国語版)にて死去。享年88。骨壷はアメリカ合衆国ニューヨークハイド・パーク(英語版)付近の荘厳寺内にあり。
※この「晩年経歴」の解説は、「周至柔」の解説の一部です。
「晩年経歴」を含む「周至柔」の記事については、「周至柔」の概要を参照ください。
- 晩年経歴のページへのリンク