晩年・福澤諭吉との交遊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 晩年・福澤諭吉との交遊の意味・解説 

晩年・福澤諭吉との交遊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:18 UTC 版)

木村芥舟」の記事における「晩年・福澤諭吉との交遊」の解説

明治新政府からもその実力を評価されて、仕官誘いがあったが、木村はそれらを全て謝絶して完全に隠居し親友福澤諭吉交遊しながら詩文を読む生活を送ったといわれている。慶應義塾の面倒も見ており、親睦会でたびたび塾を訪れたり、新銭座の有馬家中津屋敷土地用意したりしている。 福澤との関係を論じ場合は、勝海舟切って離すことの出来ない人物である。規則には常に厳しく公明正大」を信条としていた木村対し柔軟かつ奔放であった勝とは海軍伝習所時代よりあまり折が合わなかったようである。咸臨丸での渡米の際は、勝は艦長ありながら出港前より大腸カタル患っていたためにろくろく指揮出来なかったが、上陸するアメリカ人対等に会話をしていたので、それも木村福澤の目には良く映らなかったようである(福澤読み書き不便な出来たが、会話不得手だった)。こういった事情もあり、福澤咸臨丸搭乗の件でも木村に恩があり、それを抜きにしても深く尊敬していたこともあり、勝を心底嫌っていた。勝は明治維新後に伯爵枢密顧問官地位に昇ったため、これを忠義に反するとみた福澤は勝への嫌悪感決定的なものにした。 ただし維新後もとより維新以前木村と勝の仲は、福澤の勝に対するようなものではなく互いに馬が合わない程度のものであった木村にとっての生涯知己岩瀬忠震福澤であり、福澤死後の明治34年1901年3月3日時事新報』に木村は『福澤先生憶う』という切々たる長文寄せている。この他福澤は特に木村息子の浩吉に目をかけていたばかりでなく、維新後収入無くなった木村家援助し続けた明治14年1881年)には漢文随筆窓偶筆』『黄粱一夢』や『三十年史』(序文福澤諭吉)を、福澤協力によって交詢社から私費出版した日誌備忘小録』の記録残っている。 明治34年1901年12月9日72歳死去した戒名舟院穆如清風居士千駄ヶ谷瑞円寺埋葬されたが、昭和8年1933年)に青山墓地にへ改葬された。

※この「晩年・福澤諭吉との交遊」の解説は、「木村芥舟」の解説の一部です。
「晩年・福澤諭吉との交遊」を含む「木村芥舟」の記事については、「木村芥舟」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「晩年・福澤諭吉との交遊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「晩年・福澤諭吉との交遊」の関連用語

1
12% |||||

晩年・福澤諭吉との交遊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



晩年・福澤諭吉との交遊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの木村芥舟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS