晩年・福澤諭吉との交遊
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明治新政府からもその実力を評価されて、仕官の誘いがあったが、木村はそれらを全て謝絶して完全に隠居し、親友の福澤諭吉と交遊しながら、詩文を読む生活を送ったといわれている。慶應義塾の面倒も見ており、親睦会でたびたび塾を訪れたり、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に土地を用意したりしている。 福澤との関係を論じる場合は、勝海舟は切って離すことの出来ない人物である。規則には常に厳しく「公明正大」を信条としていた木村に対し、柔軟かつ奔放であった勝とは海軍伝習所時代よりあまり折が合わなかったようである。咸臨丸での渡米の際は、勝は艦長でありながらも出港前より大腸カタルを患っていたためにろくろく指揮が出来なかったが、上陸するとアメリカ人と対等に会話をしていたので、それも木村や福澤の目には良く映らなかったようである(福澤は読み書きは不便なく出来たが、会話は不得手だった)。こういった事情もあり、福澤は咸臨丸搭乗の件でも木村に恩があり、それを抜きにしても深く尊敬していたこともあり、勝を心底嫌っていた。勝は明治維新後に伯爵・枢密顧問官の地位に昇ったため、これを忠義に反するとみた福澤は勝への嫌悪感を決定的なものにした。 ただし維新後はもとより、維新以前の木村と勝の仲は、福澤の勝に対するようなものではなく、互いに馬が合わない程度のものであった。木村にとっての生涯の知己は岩瀬忠震と福澤であり、福澤の死後の明治34年(1901年)3月3日『時事新報』に木村は『福澤先生を憶う』という切々たる長文を寄せている。この他、福澤は特に木村の息子の浩吉に目をかけていたばかりでなく、維新後に収入の無くなった木村家を援助し続けた。 明治14年(1881年)には漢文の随筆『菊窓偶筆』『黄粱一夢』や『三十年史』(序文・福澤諭吉)を、福澤の協力によって交詢社から私費で出版した。日誌『備忘小録』の記録も残っている。 明治34年(1901年)12月9日に72歳で死去した。戒名は芥舟院穆如清風大居士。千駄ヶ谷の瑞円寺に埋葬されたが、昭和8年(1933年)に青山墓地にへ改葬された。
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