晩年、死、記念物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 17:59 UTC 版)
「キャリー・ネイション」の記事における「晩年、死、記念物」の解説
キャリーの反アルコール活動は"All Nations Welcome But Carrie"のスローガンと共に有名になった 。キャリーは"The Smasher's Mail"(粉砕者通信)という隔週の機関紙と"The Hatchet"(まさかり)という名の新聞を刊行し、晩年になるとキャリーの名はヴォードヴィルにすら現れるようになった(キャリーの写真やミニチュアのまさかりが販売され、有料の講義が行なわれた)。 キャリーは1901年にウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺を賞賛した。大統領が密かに飲酒をしていたと信じるキャリーは、飲酒者がその報いを受けるのを当然と考えたからである。 晩年、キャリーはアーカンソー州ユリーカ・スプリングズに住まいを移した。そこでキャリーはHatchet Hall(まさかり堂)として知られる家を建てた。家の向かいにある泉にもキャリーにちなんだ名前が付けられている。 キャリーはユリーカ・スプリングズ公園での演説中に倒れ、カンザス州レブンワースの病院に運ばれた。そこで1911年6月9日に死亡し、ミズーリ州ベルトンにあるベルトン市墓地に埋葬された。キリスト教禁酒婦人連盟は後に"Faithful to the Cause of Prohibition, She Hath Done What She Could."(「禁酒法を制定させた篤信者。彼女は自らの為し得ることを為した。」)という文面の石碑を建てた。 メディスン・ロッジにあるキャリーの家、キャリー・ネイション・ハウス(Carrie Nation House)は、1950年代にキリスト教禁酒婦人連盟によって買い上げられ、1976年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。
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