晩年・病魔との闘い
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1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰痛が悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌年の1986年に芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催(後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている)。だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。 しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で鳥羽水族館のラッコを見物した。それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。 入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。細川たかしと島倉千代子に手を取られ登場し、体調が悪い中「愛燦燦」などを歌った。 同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院した。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣および大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露した。 1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばりとも親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たした。 しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。
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