晩年・闘病・死去
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2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』(企画・運営、三貴エージェンシー)に出演。結果的にこのコンサートが西城にとって公での最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで開催された『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)に知人が出場するため、プライベートで観覧。最後方の席に西城が座っている事に気づいた総合司会で歌手協会理事、合田道人が駆け寄ってインタビューを敢行。紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピール。この場で11月開催の歌謡祭への出演を打診されると「はい、ぜひ」と答えたが、結局これが最後の公の姿となった。 この日から6日後の2018年4月25日、自宅で夕食中に突然倒れ、全身けいれんののち心停止。救急搬送で緊急入院。救命処置により再び心臓は動き出すが、約40分間の心停止により、医師から脳死の可能性が高いことを告げられる。「持って1週間だと思ってください」との説明だったが、深い昏睡状態で3週間闘病を続け、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の昭和大学藤が丘病院で死去。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」。 西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め、数多くの著名人が追悼コメントを発した。 死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイ ブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。
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晩年・闘病・死去
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肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。 2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している。 2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。 しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で急逝した。79歳だった。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐(渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳、青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ。
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晩年・闘病・死去(2015年〜2017年)
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「渡瀬恒彦」の記事における「晩年・闘病・死去(2015年〜2017年)」の解説
2015年8月末、体調不良を訴え受けた検査で胆嚢に癌が見つかった(当時も調子が良くなかったと思われるが、8月2日に大原麗子の七回忌法要に参列 していたことが確認されている)。余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由 で、2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。 「9係」プロデューサーの松本基弘には2016年の11シーズン終了後に渡瀬自身から癌であることを伝えられた。しかし松本は治療すれば必ず良くなると信じていた という。どんな体調が優れない時でも「俺はやる、とにかく現場に戻るんだ」という意欲を燃やし、2016年に入ってからは血流を良くする気功術を導入した。 病魔が渡瀬の体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された「おみやさんスペシャル2」では、6月親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れても調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったが、7月には隠し切れないほどの体調悪化で撮影が続行できるか一時検討された。しかし撮影途中から妻が京都に駆けつけ献身的に支えたことで撮影を乗り切った。松本基弘によれば『おみやさんスペシャル』の後に『タクシードライバーの推理日誌』新作撮影予定だったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めた。 遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ『そして誰もいなくなった』(2017年3月25日・26日放送)への出演を藤本一彦プロデューサーが渡瀬にオファーしたのは11月。藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した という。 渡瀬の直筆で毎年宛名から文面まで律儀に書かれていた年賀状が、2017年には「賀春 おめでとうと、ありがとうを申し上げます」と健筆で書かれていた。2016年までの年賀状とはちょっと違うことに気づき、文面に込められた渡瀬の思いに井上茂は心がざわめいたという。 『そして誰もいなくなった』の撮影は、2016年12月24日から2017年2月12日まで続いた。クランクインで渡瀬は「皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい」と挨拶した という。撮影の際には風邪が蔓延しないように全員がマスクを着用、照明のセッティング待ちがないように照明なしのカメラを用意し、出来るだけロケの回数を抑えるために、藤本プロデューサーは監督の和泉聖治へ工夫するよう指示した。最後に磐村が犯行を告白する13分間の独白シーンは、渡瀬の負担にならないよう通常は現場で行うカット割りを和泉は事前に作業した。移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入して、命を削って容態が急変する前まで撮影を終わらせた。 3月2日の制作会見では、渡瀬は「スケジュールの都合」で欠席だったが、共演者の津川雅彦 によれば共演者は癌に侵された渡瀬を気遣い労わったという。そんな渡瀬は誰よりも早く現場に入るので、つられて共演者も現場に入るのが早くなったという現場の様子を明かした。 1月25日には警視庁捜査一課9係の取材で、テレビ朝日で(最後のマスコミ個別対応になった)サンケイスポーツの取材に応じた。その時も鼻には酸素吸入器をつけてはいたが口調や足取りはしっかりしていたという。その際、記者へ「『9係』は僕にとって『やらせてください!』と言いたい作品なんです」と力を込め、同作品への並々ならぬ思い入れと役者魂をぶつけた。だが記者からの「ライフワークにしたいか?」という質問にひと呼吸して「生きていれば…」と声を落としたという。2月19日、『警視庁捜査一課9係 season12』の取材会に力強い足取りで現れ、12作目になる本作の見所を話した。その際、「体調は良くない。現状維持という感じ、食欲はないけど一生懸命食べている」と自身の体調を包み隠さず話し、会見に同席した羽田美智子が涙ながらに感謝を伝えると、渡瀬も背中を叩いて羽田へ感謝を伝えた。しかし、渡瀬が生前公式の場に登場したのは、この日が最後になった。 2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、3月に入って敗血症を発症。しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から『警視庁捜査一課9係 season12』の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた。死去の前日にはマネージャーと『警視庁捜査一課9係 season12』の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ頑張ろう」と自らを鼓舞していた という。しかし3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、同日23時18分、胆嚢がんによる多臓器不全のため、東京都内の病院で永眠。72歳だった。
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晩年・闘病・死去
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2016年(平成28年)3月に入り、頭痛、手足のしびれなど体調不良を訴え始め、都内の大学病院を受診し、入院。同月23日、「脳腫瘍の疑いがあり長期療養を要するため出演予定だった3月1日から6月8日までの夢グループ主催による歌謡ショー『夢コンサート』を降板、6月からの舞台『遠山の金さんと女ねずみ』も公演自体を中止する」と発表。検査の結果「脳リンパ腫」との確定診断を受けたことが公表された。放射線治療、抗がん剤の投薬治療を行うも、治療のさなか、脳梗塞を併発し、急激に体力も衰えていった。 2017年(平成29年)1月21日午前11時26分、事実婚関係にあった元女優と3人の事務所関係者に看取られ、脳リンパ腫のために東京都内の病院にて死去。74歳(享年75歳)没。 2017年(平成29年)1月23日午後6時頃、メディアを通じて、松方の訃報が公式に発表され、その夜に弟の目黒祐樹が涙をこらえながら、闘病生活とその最期の様子、葬儀をごく親しい近親者だけで行ったことを公表すると共に、生前において松方に関わった関係者、所縁のある人たち、応援し続けたファンへ向け、感謝の意を述べた。また、葬儀に参列した梅宮辰夫らが追悼コメントを発表した。松方の葬儀が近親者などによるものであったため、彼を知る友人・知人たちから「最後のお別れを言いたい」と希望する声が寄せられたこともあり、同年6月6日に東京プリンスホテルにてお別れの会を開催することになった。 2017年6月6日、東京プリンスホテルで「松方弘樹さんを偲ぶ会」が営まれた。梅宮辰夫、ビートたけし、里見浩太朗、五木ひろし、森喜朗、高橋英樹、中尾彬、大和田伸也、北島三郎、小松政夫、白竜、デヴィ・スカルノ、錦野旦、南野陽子、モト冬樹、山本リンダ、千葉真一、高橋克典、岩城滉一、浜田雅功、太田光代、水谷八重子、松本明子、徳光和夫、テリー伊藤、堀田眞三、三田佳子、十朱幸代らが参列した。
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