晩年-逐電と粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 03:42 UTC 版)
しかし戦後、良好であった義光との仲は悪化することになる。民部は義康の近臣・原八右衛門(元上杉家臣)と共に義光・義康父子離反をはかり双方に讒言した。またあるとき義康が寺に赴くと、事故により股を傷つけたのを里見が「若殿は大殿を恨み、自害しようとした」と義光に言上したためさらに仲が悪化した。この行動は義光が次男・家親に家督を継がせようと画策するのを手助けした、またそれにより自身の地位を高めようとしたともいう。 慶長8年(1603年)8月16日義康の廃嫡および謀殺に加担し、危機を察知して一族と共に逐電する。なお民部らの逐電後、城には坂光秀・最上光広が入った。 流浪の末加賀前田家に仕官を妨害され、最上氏からの要求によって引き渡れる。尾浦城主・下吉忠に預けられたが、最上家の障害として認識され、父・義近、子・正光ら主従23名が切腹させられた。慶長19年(1614年)のことである。 最期については諸説あり、引き渡しの最中に庄内丸岡で殺害されたとも、山賊に襲撃され死亡したとも、同僚・斎藤光則による謀殺とも、帰国後に城内で殺害されたともいう。 義光は死の直前、後継者である最上家親に向かって「自分の死後、即座に里見一族を粛清せよ」と密かに命じた。この遺言を受けた家親は粛清に乗り出し、上山里見氏の大半を殺害したという。 民部の甥・里見元勝は、上山満兼殺害の時に父・内蔵助を殺害されていたことから一族粛清に加担している。父の仇討後、最上家の斡旋により仙台藩に仕えた。
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