国共内戦期の失権と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 21:13 UTC 版)
日中戦争が中国の勝利で終わった後、宋子文は中国各地に残された敵産接収を担当した。しかし接収の際は権力者による略奪を防ぐことはできず、宋を含む四大家族が管理する企業に資産が集中したとも言われる。戦後の国民政府が日中戦争期の多額の出費や第二次国共内戦を控えた社会混乱、更には自由貿易政策やハイパーインフレによる経済混乱といった問題を抱える中、宋は適切な政策をとらなかったとして批判を受けた。国共内戦再開後の1947年2月には傅斯年が『世紀評論』上で「這個様子的宋子文非走不可」という弾劾論を発表し、これがきっかけとなり宋子文は3月に行政院長を辞職した。 1947年10月からは広東省政府主席となったが、ここでも経済混乱は収束させられず、逆に官僚資本を通じて暴利を貪ったとの批判もある。1949年、長江を越えて広東に人民解放軍が迫る中、宋子文は香港へ、さらに6月にアメリカ・ニューヨークへと逃れた。以降は台湾の中華民国政府側からの台湾「復帰」要請にも応えず、1963年に僅かの間、台湾を訪れたのみであった。1971年、サンフランシスコを訪問中に客死した。 また宋子文・蔣介石・孔祥熙・陳果夫はいわゆる四大家族として中華民国後期の政治経済を牛耳る存在であった。
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