国共合作への貢献と日中戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:40 UTC 版)
「曽養甫」の記事における「国共合作への貢献と日中戦争」の解説
1935年頃から、蔣介石の密命を受けた陳立夫は、共産党との和平交渉を開始していた。そして曽養甫は、陳の密使として共産党との秘密交渉を担当している。1936年8月に曽が広州市長に任ぜられてからも交渉は継続し、特に周恩来との間で密接な連絡を取り合った。これら秘密交渉には同年10月頃から陳本人が直接従事することになり、曽は交渉より離れたものの、その後の第2次国共合作成立に多大な貢献を果たした。 1937年(民国26年)5月、曽養甫は広東省財政庁長に就任する。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)10月に軍事委員会西南進出口(輸出入)物資運輸総経理処主任を兼任し、抗戦のための軍需物資の取引・調達に従事した。1938年(民国27年)10月に広州市が陥落すると、曽は広東税警団隊を率いて広東省西部の広寧県に退却し、抗戦を継続している。翌1939年(民国28年)1月に、蔣介石の召還を受けて曽は重慶に移り、まもなく滇緬鉄路督弁に任命された。曽は自ら工事要員を率いて現地に赴き、困難な環境の中で鉄道建設事業に従事している。 1941年(民国30年)12月、日本軍がヤンゴンを占拠したため、滇緬鉄路建設任務は中断を余儀なくされた。曽養甫は蔣介石に召還されて軍事委員会工程委員会主任委員に任命され、国内各地の空港建設・整備に取り組んでいる。1942年(民国31年)12月、交通部部長に起用され、引き続き中国西南部・西北部の交通整備事業に従事した。翌年1月には公路総局を新たに創設し、自ら局長を兼任している。1945年(民国34年)1月、滇緬鉄路建設事業の際に感染した病で足を痛め、交通部長を辞任、アメリカで治療にあたった。
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