国共再合作への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 14:32 UTC 版)
西安事件後、共産党の国民党への合作の働きかけはさらに積極化された。1936年12月19日、共産党中央と中華ソビエト政府は、陝西省境の潼関における内戦停止、全国各党各派による和平会議の招集、会議の議題は内戦停止と一致抗日、会議の場所は南京と、南京政府に訴えた。1937年1月6日、共産党中央は国民党・南京政府に対して通電を発して、即時停戦と親日派の罷免を要求した。 西安事件で内戦停止と一致抗日を約束させられた蔣介石は、南京に帰還すると、直ちに中央軍を陝西省から撤退させる声明を出した。1936年12月29日、国民党中央常務委員会は、反乱軍討伐の停止、張学良と楊虎城討伐の大本営である討逆大本営(総司令は何応欽)の解消などを承認した。1937年1月6日には、共産軍討伐前線司令部である西安の掃共行営が廃止され、十年間続いた国共内戦は事実上停止された。1月8日には親日派の中心人物である張群外交部長(外相)が罷免され、反日・欧米派に属する王寵恵が就任した。 2月10日、共産党中央は国民党三中全会に対する通電を発して、共産党が国民党と国民政府の指導権を認め、その指揮権に服従することを表明し、抗日のために第二次国共合作を要求した。2月15日から開かれた国民党三中全会では、①紅軍の取り消し②ソビエト政府の取り消し③赤化宣伝の中止④階級闘争の中止の四条件からなる赤禍根絶決議が採択され、共産党に対して表面的には非妥協的であったが、失った領土の回復、各党各派を入れた国民大会の招集、共産党の要求する和平会談の受諾が決められた。赤禍根絶案が決議された2月22日、蔣介石は、抗日民族運動に関する言論・出版・行動の自由、政治犯の釈放、各方面の人材登用、一致団結して国家目前の困難解決の意向を明らかにして、抗日民族統一戦線を暗に容認した。さらに「赤匪」とか「共産匪」とかいう用語の使用が禁じられ、少数のあまり重要でない政治犯が釈放された。共産党中央宣伝部が4月3日付で発表した「国民党三中全会後のわれらの任務に関する宣伝大綱」のなかで、国民党三中全会は極めて重要な意義を有する会議であったことを認め、①国民党が政策転換の開始を表明した②内戦停止、民主制度の拡大、言論開放、政治犯釈放を承認した③赤禍根絶決議はわが三中全会へ与えた通電と原則的に接近しており、国共間の折衝進行の可能性を表明した④このことは国共合作の原則がすでに確立したことを意味する⑤対日戦への決意を表明した、と三中全会を高く評価した。 共産党代表の周恩来と国民党代表の張冲の間で和平交渉が行われ、1937年3月1日には、内戦停止・一致抗日および国民大会に各方面の人材を収容すること、の二原則が成立し、3月4日には、改編共産軍について、新駐在地点の指定、南京の軍事委員会への指揮服従、国民政府からの軍事費支給などが確約された。その結果、ソビエト区に対する経済・郵便・電信・交通の封鎖が部分的に解除され、数百人の青年共産党員、多数の若い急進分子、老練な党工作者、優秀な技術者たちが中国各都市から徒歩で延安に赴いた。また三個師団分ではあったが、国民党政府は共産軍に対して軍用金と弾薬を支給した。 共産党は4月7日、「これまでの一切の土地改革規定を全面的に放棄する」宣言をして、国民党に大きな譲歩を示し、4月15日、「全党同志に告ぐる書」を発表して、今後の任務はすでに獲得した国内平和を強固なものにし、民主的権利を闘いとり、対日抗戦を実現することにあると指摘した。
※この「国共再合作への道」の解説は、「国共合作」の解説の一部です。
「国共再合作への道」を含む「国共合作」の記事については、「国共合作」の概要を参照ください。
- 国共再合作への道のページへのリンク