戦時体制の強化とともに困難になる炭鉱経営
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「大嶺炭田」の記事における「戦時体制の強化とともに困難になる炭鉱経営」の解説
1940年(昭和15年)、大嶺炭田は山陽無煙炭鉱を筆頭に16の炭鉱があった。同年度、山陽無煙炭鉱は約41万トン、炭田全体では約50万トンの産出量を記録し、戦前の最高を記録する。中でも荒川地区の榎山炭鉱は鉱区を拡張して着実な発展を見せていた。1920年(大正9年)、荒川地区の榎山炭鉱などからの石炭輸送用として馬車鉄道が建設されていた。この馬車鉄道は榎山炭鉱などの中小炭鉱や山陽無煙炭鉱の荒川坑から産出された石炭を大嶺駅まで運んでいたが、山陽無煙炭鉱が日産コンツェルン傘下に入った後、エンドレス運搬設備に変更された。そして1942年(昭和17年)には山陽無煙炭鉱から一部鉱区とともに榎山炭鉱に譲渡され、引き続き大嶺駅までの石炭運搬に使用された。 しかし1940年(昭和15年)を頂点として大嶺炭田での炭鉱経営は次第に困難となっていく。まず最初に問題となったのが労働力不足であった。戦時体制が強まっていく中で、炭鉱労働者の多くが出征するようになったため、1939年(昭和14年)頃から人手不足が大きな問題となった。そこでこの頃から山陽無煙炭鉱では、農閑期の出稼ぎや経営難に陥った工場から短期労働者を雇い入れるようになった。短期労働者は期限がある中でお金を稼ぐことが目的であったため、休みを取ることもなくまじめに働いたという。同じ頃、国は全国各地の僻地の農山村の町村長に対し、勤労報国隊として炭鉱で働く人材を出すように奨励した。短期労働者は勤労報国隊と呼ばれるようになり、山陽無煙炭鉱にも島根県、徳島県、新潟県、三重県など全国各地の農山村から勤労報国隊がやって来るようになった。短期労働者はまじめに働く人たちであったため会社側も歓迎し、正月には紅白の祝い餅や折詰を支給したり、勤労報国隊の故郷で映画の上映会を開催するなど厚遇した。やがて短期労働者の存在は山陽無煙炭鉱に定着していった。例えば新潟など北陸方面から来る短期労働者は、山口県の山間部で冬季に雪が多く、スキーができる場所があることに目をつけて、山陽無煙炭鉱のスキーを楽しむ会を結成したという。 また1939年(昭和14年)からは、山陽無煙炭鉱の人手不足解消策の一環として朝鮮人を雇い入れることにした。当時、炭鉱の人手不足は全国的な問題であったため、朝鮮総督府に炭鉱労働者の募集願いを提出すると、総督府より募集地域の割り当てがされる仕組みとなっていた。山陽無煙炭鉱は忠清南道が割り当てられ、道庁の協力を受けつつ鉱山労働者の募集を行った。1941年(昭和16年)には多くの炭鉱労働者が戦争に駆り出されて人手不足が深刻化し、朝鮮人労働者への依存度が高くなっていき、炭鉱労働者の3分の1が朝鮮人で占められるようになった。 戦争が苛烈さを加えていくようになると、ますます大勢の炭鉱労働者が兵隊に取られ、炭鉱の労働者不足は深刻さを増していった。1942年(昭和17年)11月、麦川の白岩社宅の一角にあった独身者用の白岩親和寮を改修して捕虜収容所とし、ビルマ戦線で捕虜となったオーストラリア兵を含むイギリス兵184名を収容し、短期間の訓練期間の後に山陽無煙炭鉱での採炭作業に従事させた。1943年(昭和18年)8月には、今度はフィリピン戦線で捕虜となったアメリカ兵288名が収容され、炭鉱労働に従事させた。 人員の問題とともにネックとなったのが、大嶺炭田で産出される石炭が無煙炭ということであった。無煙炭の生産量は有煙炭よりもはるかに少なく、炭鉱間の協調も見られなかった。しかも主な用途が家庭用の練炭、豆炭であり、工業用としての需要は少量であった。家庭用の需要が主であるということは、戦時体制が強化されていく中ではどうしても重要性が薄い資源であると判断されがちであった。これらの理由から無煙炭は戦時体制下での資材の入手、販売の統制などで有煙炭よりも不利益を被る場面が多かった。このような情勢を打破すべく、1940年(昭和15年)、山口県内の無煙炭鉱間の結束を固めることを目的として、山口無煙炭鉱協会が設立された。 そして戦争が激化していく中で、物資不足が顕著になると炭鉱への資材供給が滞るようになってきた。山陽無煙炭鉱の無煙炭の一部は1937年(昭和12年)以降、小野田の火力発電所の発電用に利用されていたため、そのことを根拠にしてようやく資材の提供を受けたという。しかし無煙炭の用途がほぼ家庭用の練炭に限られていたため、戦争遂行上の重要性が薄いと判断され、結局、重点産業から外されて資材供給が制限されてしまった。このような状況では生産量は著しく低下し、1945年(昭和20年)の大嶺炭田の出炭は約17万トンにまで落ち込んだ。 なお、戦争の終盤には中央坑道の一部を拡張して軍需工場を建設する計画が持ち上がった。この地下軍需工場建設計画は実際に中央坑道の拡張に取り掛かったものの、拡張工事中に終戦となって工場建設には至らなかった。また荒川坑は爆薬貯蔵庫として活用されることになり、爆薬が搬入された。
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