戦時体制の破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:41 UTC 版)
第一次世界大戦中のオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)では議会が停止されて皇帝の大権による「戦時専制」が成立、労働運動を基盤とする有力政党であった社会民主労働党(以下「社会民主党」)の多数派は参戦を支持し、また労働組合もストライキを中止して政府に協力する城内平和体制が発足していた。しかし総力戦に伴う経済の逼迫や生活の困窮が進行すると、次第に国民の不満が募り、1918年1月には小麦配給削減に抗議する労働者のストライキが勃発、国全体で55万人が参加する大規模スト(戦時下のヨーロッパでは最大であった)に発展し、労働者の要求も無併合の講和の実現など政治的なスローガンへとエスカレートしていった。このストライキ自体は1月中に収束したものの、以降ストライキが各地で頻発する状況となり、オーストリアでの城内平和体制は綻びを露わにしていった。
※この「戦時体制の破綻」の解説は、「オーストリア革命」の解説の一部です。
「戦時体制の破綻」を含む「オーストリア革命」の記事については、「オーストリア革命」の概要を参照ください。
- 戦時体制の破綻のページへのリンク