戦時体制下の経営悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 08:41 UTC 版)
しかし、皇室や篤志家からの支援を受けても学園の経営状況は好転せず、1929年頃から始まった昭和恐慌により、先述の土地取引の失敗など、学園は多額の負債を抱えることとなり、理事長の渋沢栄一も死去する。さらに、秩父宮夫妻来園の年、創立者で初代学園長の石井亮一も死去し、学園は再び大きな困難に直面する。この頃、学園は金融機関や教団(日本聖公会)からの借入金の返済に窮しており、後任の学園長についても、候補者に次々に固辞される有様であった。学園の存続はたちまち危機に瀕したが、亮一の死から4ヵ月後の10月16日、やむなく夫人の石井筆子が夫の遺志を継いで、第2代学園長に就任、存続を決定した。筆子は、事実上破綻状態に陥っていた学園の経営を、「他の方にお願いするわけにもいかない」と、みずから学園長就任を決断した。 戦時中は、食糧難で園児たちにも餓死者が出たほか、職員や軽度障害の園生が徴兵され、出征、戦死するなどの苦難があった。さらに終戦の前年、第2代学園長の石井筆子が死去し、学園の経営に追い打ちをかける。しかし、皇太后(貞明皇后)をはじめ、支援者たちの尽力により、戦時下の危機を乗り切った。しかし、筆子亡き後、第3代学園長の渡辺汀が程なくして他界し、第4代理事長の沢田廉三、第4代学園長の渡辺八郎が相次いで公職追放に追い込まれる事態となる。学園当局は、沢田理事長の妻・沢田美喜に学園長就任を打診するも、美喜はエリザベス・サンダースホームの開設準備に追われており、学園からの要請を辞退した。
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