戦時体制下の高商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 01:43 UTC 版)
軍部下では戦時下のおける状況を鑑み、太平洋戦争末期の1943年に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に基づき、1944年4月、各高商は戦時体制に組み込まれ、山口、小樽や高松など5校が経済専門学校として残されたほかは、軍需物資生産の担い手となるため工業経営専門学校との並置、工業専門学校への転換を余儀なくされ、教授陣の入れ替えが行われた。同年10月、三商大のうち官立の2校も改称された。 具体的には、官立高商のうち高岡・彦根・和歌山の3校は工業専門学校に転換(彦根・和歌山は戦後経専に再転換したが、高岡は工専のまま廃校となった)、その他の高商はすべて経済専門学校に改称され、東京商科大は東京産業大、神戸商業大は神戸経済大に改称された(前者は戦後の1947年、東京商大の旧称に復した)。この結果、市立の大阪商科大を例外として、全ての官立商大・高商の校名から「商」の文字が消えることとなった。 一方、長崎・横浜・名古屋の3校のように工業経営専門学校を併設するケースもあった。この場合、経専自体はひとまず存続したものの、残った高商生が卒業するまでの受け入れ先と位置づけられ、これらの生徒の卒業後の廃止が予定されていた。東京商大では附属工業経営専門部を設置、改称を免れた大阪商大も附属の高等商業部を大阪工業経営専門学校に転換した。戦後1946年〜1947年にかけて、大阪工業経営専門学校は大阪商大高等商業部に再転換、その他の工業経営専門学校も廃止され各経専に統合、東京商大(この時点では産大)の場合も廃止され統合された。 また、各高商・商大で設置されていた調査部などの研究施設は、1930年代の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」建設の気運の高まりに伴い、「東亜」など類似の名称を冠したものに改称・改編された。例えば山口高商の「東亜経済研究所」(1933年改称による / 現・山口大学東亜経済研究所)、彦根高商の「東亜会館」(1939年設置 / 現・滋賀大学経済経営研究所)、横浜高商の「太平洋貿易研究所」(1941年改称)、東京商大の「東亜経済研究所」(1940年設置・1942年官制による / 現・一橋大学経済研究所)、長崎高商の「大東亜経済研究所」(1942年改称 / 現・長崎大学経済学部東南アジア研究所)、神戸商大の「大東亜研究所」(1944年改称 / 現・神戸大学経済経営研究所)などがそうである。これらの研究所は第二次世界大戦終結にともない、GHQの指令により改称を余儀なくされた(大半はそのまま廃止されるか、「経済研究所」など「東亜」の文字を外し改称することで存続するかし、戦前以来の名称を残しているのは山口大の東亜経済研究所のみである(ただし戦後の一時期断絶している))。 なお官立経専の中で戦災(空襲)によって校舎の大半を焼失したのは高松経専のみである(長崎経専は原爆に被災したが、爆心地からは山の陰となる場所に位置していたため爆風による校舎の倒壊は回避された)。
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