幻の中日入団
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山内は高校2年生だった1949年(昭和24年)10月、中日の入団テストを受験する。この時は投手としてテストを受験し、無名選手ながら1次テストには合格したが、二次テストで不合格になった。しかし、これがきっかけで野球への自信を深め、後の川島紡績入社につながる。 また、1950年11月には瀧正男が山内からの「プロ野球に進みたいので、どこかに話をしてほしい」という申し出を受けて中日球団を訪れ、当時球団幹部だった平岩治郎(後の球団代表)に対し、山内に中日の入団テストを受験させるよう申し入れた。しかし、平岩から「山内はスカウトの候補者リストに入っておらず、昨年の入団テストを受験したが不合格だった」と断られた。 なお、近藤唯之 (2006) は「昭和26年(1951年)のある日、山内は『(できれば中日で)プロ野球選手になりたい』と名古屋市にあった中日球団事務所を訪れたが、応対した球団代表・高田一夫から『人間、何でも修業だよ。君が真剣に修業していれば、いつの日かきっと中日の方から迎えにいくからな』と諭され、門前払いされた」という旨を述べている。
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