幻の三階級制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:40 UTC 版)
「ファイティング原田」の記事における「幻の三階級制覇」の解説
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。 しかし、これだけでは終わらなかった。レフェリーのペップは「引き分け」という判定を下したが、この時の試合のジャッジもペップ自身が一人で務めており(※当時の世界戦のルールで、判定は開催地ルールにより下すと決められており、当時の開催地シドニーのニューサウスウェールズ州では、この世界戦の判定は主審1人という英連邦ルールで判定を下すと試合前に定められていた)、しかもスコアシートを採点した結果、なんと「原田の判定負け」という結果だったのだ。原田がダウンを奪ったラウンドでも、5-3ではなく、5-4と採点されていたのだ。当時の地元スポーツ新聞にはリング上に倒れている王者の写真がデカデカと掲載されていたことから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
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