幻の三木内閣
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芦田内閣総辞職後の10月9日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見する。マッカーサーは三木に対し、芦田の後継首班になる意思がないか尋ねた。社会党首班の片山内閣、民主党首班の芦田内閣に続いて、残る国民協同党の党首である三木が首相となることは不自然ではなかった。民政局のケーディスはマッカーサーに対し、三木の首班を推薦しており、マッカーサーの要請はケーディスの意見によるものであったと考えられる。ただし民政局は民自党党首の吉田茂が首相となることを嫌い、山崎猛民自党幹事長を首班に擁立する、いわゆる山崎首班工作を進めており、三木は芦田の後任首相候補の一人としての位置づけであったと考えられる。 この時三木は「野党第一党の吉田を首班とすべき」とし、マッカーサーの要請を断ったとされる。三木の判断の背景には、まず自らが党首を務める国民協同党は少数党であり、少数党から首相が出たところで政権維持が困難であることは自明であった。次に芦田内閣倒壊後の情勢判断があった。社会党は左右がまとまらない状況に陥っており、民主党は民自党との連携を主張する勢力もあったが、結局10月12日に下野を決定した。民主党は首班指名において誰に投票するかを協議した結果、当初山崎猛に投票する方針となったが、山崎が議員辞職してしまったため、三木に投票しようとの声が上がった。結局、代議士会で白票、三木、吉田の三案の中から決することとし、まず三木と吉田で無記名投票を行った結果、三木が吉田を上回った。そこで三木か白票かを挙手してみたところ、白票が上回ったために民主党は首班指名で白票を投ずることに決した。つまり社会党、民主党も当時三木首班でまとまる情勢ではなく、ブレーンの矢部も三木に対して、首相にはならず中道勢力の結集を進めるよう助言した。このような情勢ではマッカーサーの要請を受け入れたところで三木政権が成立できた可能性は高くなかったとする見方がある。一方、マッカーサーが三木に政権担当を要請したことを錦の御旗とすれば、政権獲得の可能性は十分にあったとする説もある。 三木は当時まだ41歳の若さであり、中道政治を進めていけば遠からずチャンスが訪れると考えたと思われる。しかも片山、芦田の両政権は政権内部の対立もあって短命に終わっており、もし三木政権が樹立されたとしても短命に終わる可能性が高かった。当時は政権運営が困難であり、芦田政権の後を継ぐことになる吉田政権も短命になるともと考えられていて、いったん吉田に政権を渡してみるのも良いのではとの判断があった可能性もある。様々な紆余曲折の後、実際に三木が政権の座に就くのは四半世紀余りを経た26年後のことになる。
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