幻の五輪代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:37 UTC 版)
東洋大学陸上競技部に所属していた1935年4月3日、東京・明治神宮外苑競技場を発着点として開催された1936年ベルリンオリンピックマラソン代表候補挑戦競技会において、アメリカのアルバート・マイケルセンが1925年に樹立した2時間29分02秒の記録を2分18秒上回る2時間26分44秒の世界最高記録で優勝した。同年11月3日の明治神宮体育大会のマラソンで池中の記録は孫基禎(2時間26分42秒)に更新されたが、同大会後にベルリンオリンピックマラソン代表候補とされた。しかし、弟が大病に冒され、池中が大量の献血をしなければならなくなり、1936年5月21日に行われたベルリンオリンピックマラソン最終選考会では途中棄権となった。 ベルリンオリンピックの次に開催されることになった1940年東京オリンピックでは、危なげない走りで再度マラソン代表の座を射止めたが、日中戦争の影響で東京オリンピックが開催権返上、そして代替開催となるはずだったヘルシンキオリンピックも第二次世界大戦の勃発により中止となり、オリンピックには出場できないまま、現役を引退した。このことから「幻の五輪代表」という異名で呼ばれることもある。
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