階級の第一人者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 02:25 UTC 版)
大学卒業後、1981年まで茨城県日立市の県立多賀高校にて教鞭を執る。この間に全日本選抜体重別選手権で4連覇を含む5度の優勝を飾ったほか、講道館杯でも5度決勝に進出し2度優勝するなど、軽量級および軽軽量級の第一人者として長く君臨した。また1975年には世界選手権(ウィーン)で準優勝し、1981年の同大会(マーストリヒト)では30歳にして世界王者に。同大会では選手団の主将も務めた。なお、この間に1980年のモスクワ五輪でも柔道競技(軽軽量級)の日本代表に選出されていたが、政治的な問題で日本は不参加となったため、“幻の五輪代表”となった。
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