川島紡績時代
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高校3年生の時には先述のように中日へ入団しようとしただけでなく、四日市東洋紡(三重県)野球部の入部テストを投手として受験したが、この時も不合格に終わった。結局、瀧はプロ入りできなかった山内に対し、軟式野球の強豪だった社会人野球チームの川島紡績(岐阜県岐阜市 / 現:カワボウ)を紹介。川島紡績は翌春に硬式野球部を創設することが決まっていたが、瀧は「名門チームでは年功序列などもあって埋没する心配もある。新生チームならば、自由な雰囲気があって(山内が)力を発揮しやすい」と考え、同社を紹介した。山内もこの提案を受け入れ、当時の監督・森弘太郎の計らいで入団テストを受け合格。 1951年(昭和26年)4月に川島紡績に入社したが、「投手に向いていない」と感じたため外野手(左翼手)に転向。しかし打撃面では荒削りながら大飛球を飛ばし、森から注目を受ける。1951年(昭和26年)春、大須球場(愛知県名古屋市)で開かれた試合にて3番打者が捻挫で欠場したため、急遽左翼手で先発出場。ノンプロでのデビュー戦となったこの試合で4打数3安打(2本塁打)を記録し、その後も森から厳しい指導を受けて打撃・守備面ともに成長を果たす。川島紡績は同年8月の都市対抗に出場。大会では2回戦に進むが日鉄二瀬に敗退。この大会時、球審を務めていた井野川利春(後の東急フライヤーズ監督)からプロ野球に誘われる。 1951年11月、パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団。テスト生としての入団だった。背番号は8で、阪神時代・広島時代も一貫して着用し続けた。また、プロでは20年間にわたり左翼手で守備に就き続けた。
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