川島芳子との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 19:12 UTC 版)
1930年(昭和5年)10月、田中は陸軍中佐で上海の公使館付武官として赴任した。そこで川島芳子と知り合い、ほどなく男女の関係になる。そして川島の語学力や明晰な頭脳・行動力を利用し、謀略工作の世界に引き込んだ。 第1次上海事変は1932年(昭和7年)1月に始まる。戦後、田中はこの事変を関東軍の謀略であるとした。日本人僧侶襲撃以降の脚本を書いたのが田中で、川島が関東軍から渡された軍資金2万円を使って中国人を煽動し、日本人僧侶を襲わせたと主張している。 その後も、国民党軍のスパイ活動を川島に行わせていたが、小説『男装の麗人』などで川島の名が有名になると、逆に2人の仲は冷えていき、しばしば口論するようになったため田中と川島は別れることになったが、その後も田中は川島に恋文のような手紙を送っている。 ただし、上海事変のきっかけに川島が関わったということは田中の回想以外の記録には見られず、田中と川島との関係や川島が諜報活動に携わったというのもどこまでが真実かは不明である。しつこくつきまとう田中に川島がうんざりしていたという証言もある。
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