川島芳子として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:03 UTC 版)
やがて粛親王が復辟運動のために日本政府との交渉人として川島を指定すると、彼の身分を補完し両者の密接な関係を示す目的で、顯㺭は川島の養女とされ芳子という日本名が付けられた。顯㺭を養子に出す際に粛親王は川島に宛てて「君に玩具を進呈する」との手紙を送っている。 1915年に来日した芳子は当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。陸軍松本連隊の山家亨少尉と恋仲になる。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。 1922年に実父粛親王が死去し、葬儀参列と遺産分配の話し合いのために長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。1923年には北京で愛新覚羅溥儀に謁見した。
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