川島芳子とは? わかりやすく解説

川島芳子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:25 UTC 版)

川島 芳子(かわしま よしこ、1906年5月24日 - 1948年3月25日)は、清朝皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭[1](あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝俳名和子。他に芳麿良輔と名乗っていた時期もある。


引用

  1. ^ 粛親王の顧問だった川島浪速の名前は、陸軍省・外務省の公文書中にも記録されている。
    • 陸軍省大日記 明治37年 臨密書類 陸軍省』清国駐屯軍司令官仙波太郎 明治36年9月20日
    『陸軍省受領臨密受第九一号 清国駐屯軍司令部普参発第一〇〇号』

    兵器払下ニ関スル件ニ付伺

    別紙之兵器今般北京警務学堂用トシテ購買致度旨粛親王ノ内命ヲ含ミテ警務顧問川島浪速氏ヨリ本官迄相談有之候尤モ警務学堂ニ在テハ目下之処右兵器費ノ全額ヲ一時ニ支払フ可キ余裕無之候得共本年乃至明年ニ於テ数回ニ渉リ之ヲ調弁スルハ成シ得ルノ境涯ニ有之趣ニ候就テハ警務学堂ノ照会通リ御許諾相成儀ニ候哉若シ御認可相成候ハ兵器価格ノ点ハ勉メテ低廉ニ又其授受ニ際シテハ可成@ケ請雑費ヲ減少スルタメ商人ノ手ヲ煩ハサザル様特ニ御詮議相成度此段及伺候也

    明治三十六年九月二十日 清国駐屯軍司令官仙波太郎 陸軍大臣寺内正毅殿
    • 外務省記録 北京情報/機密ノ部』 在清国帝国公使館 明治42年01月19日
    『明治四十二年二月一日接受 主管政務局 第一課 第七号 (明治四十二年一月十九日)

    北京情報 機密ノ部 在清国 帝国公使館 機密受第323号 北京機密情報 第七号

    袁世凱免官ニ関スル粛親王ノ談話

    袁世凱ノ免官一件ニ関シ粛親王カ川島警務学堂監督ニ語リタル所ナリトテ同人ノ報ゼル事項ノ要領ハ当時電報ニ及ヒタルガ其詳細左ノ如シ 袁世凱ガ今回ノ処分ニ逢ヒタルハ全ク兼テ摂政王ノ感情ヲ害シ居ルコト甚シカリシニ因ルモノナリ即チ康有為事変ニ於テ袁ノ一挙両宮ノ不和ヲ醸シ先帝ヲ憂鬱ノ間ニ幽居セシムルニ至リタル
  2. ^ 満州では関東軍の庇護を受けていた芳子だったが、日本国内では要注意人物と頻繁に接触する人物として、長期に渡り警察の監視対象とされていた記録が残されている。
    • 外務省記録 要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第九巻』警視総監大野緑一郎 昭和7年3月22日 内務大臣犬養毅 外務大臣芳澤謙吉宛
    三二、 外秘第七〇六号 昭和七年三月二十二日 警視総監 大野緑一郎 内務大臣 犬養毅殿 外務大臣芳澤謙吉殿 大阪、兵庫、山口、長崎、 各府県知事殿 関東、朝鮮各警務局長殿 満州帰来容疑邦人ノ入京ニ関スル件 本籍長崎県東彼杵郡萱瀬村三二八 住所府下杉並町高円寺九四一 無職(元政友会代議士)今里準太郎 当四十七年 右者首題ニ関シ外第三月十二日特一五九八号、山口県通報アリタル処本名ハ途中大阪ニ下車同地梅田ホテルニ滞在、資金調達ノ為メ同地ニ於テ小石川区表町一〇九小田切喜代治等ト共ニ交渉シ居リタリト称シ三月十九日入京帰来セルカ同人ハ昭和二年中全亜細亜連盟ヲ組織シタルコトアリ又客年四月十六日外秘第九九〇号、既報ノ通リ故粛親王ニ女川島芳子事顕子ト神田錦町芳千閣ホテルヘ同宿シテ〜
    • 外務省記録 要視察人関係雑纂/本邦人ノ部 第十四巻』京都府知事 鈴木敬一 昭和12年3月9日 外務省 京都府
    四三、 二特収秘第一五九号 昭和十二年三月九日 京都府知事 鈴木敬一 内務大臣河原田稼吉殿 外務大臣佐藤尚武殿 関東局警務部長殿 関東州庁警察部長殿 各庁府県長官殿(警視庁、大阪、兵庫、福岡山口) 在上海内務書記官殿 外事関係容疑者身元調査ニ関スル件 本籍 京都市東山区問屋町五条下ル 住所 同左京区下鴨宮河町 自称満鉄上海北洋魚業重役 大塚博国コト大塚久三 右者昭和八年五月肩書地ニ来住シ一定ノ職ナク常ニ満、支方面ニ旅行シ又曩ニ来邦セル満州国龍江省長金壁東ノ入洛ニ際シテハ何等関係ナキニ不拘種ク世話ヲナシ或ハ川島浪速、及川島芳子等ノ入洛ノ際モ之等ヲ自宅ニ宿泊セシメ之等ノ者ト親交アル如キ態度ヲ取ル処近隣ノ者ニ対シ自分ハ支那沿岸ニ〜

注釈

  1. ^ 村松友視の「梢風のスタイル」(『作家の旅』平凡社)p.35によれば、水谷八重子 (初代)主演で東宝劇場のこけら落しとして上演された。大ヒットして戦後の裁判で有罪となる決め手の一つとなった。
  2. ^ 少年倶楽部誌上で1926年1月から翌年11月まで連載された「太陽は勝てり」(阿武天風著)は、甘珠爾札布と川島芳子をモデルとした冒険小説であり、現実の結婚と小説がシンクロする展開となった。
  3. ^ 昭和8年2月22日付朝日新聞に「男装の麗人川島芳子嬢、熱河自警団の総司令に推さる 雄々しくも兵匪討伐の陣頭に」という記事が掲載された。川島芳子本人は「婦人公論」の手記の中で「熱河省の隅々を駆け廻つたのですが、僕が動いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われてゐるので、全く面はゆい次第です」とのべている[2]
  4. ^ 『蒙古の唄』にはモンゴル語で歌っている部分があるが、意味が通じないところもある。これは一時期蒙古人の夫と結婚して草原で暮らしていたので、その時に聞き覚えたものではないかと思われる[誰によって?]
  5. ^ 「当時病気療養と称して芳子はときどき松本を訪ねている。病名ははっきりしないが、このころから芳子は自ら股に鎮痛のための注射を盛んにうったようだ。麻薬中毒であったとの噂もあるのだが、これに対しては小方八郎(芳子の個人秘書)が真っ向から否定しており、『麻薬ではなく市販のフスカミンという注射薬です。私が薬局に買いに行きましたからまちがいありません』と証言している」。また、昭和12年6月11日付毎日新聞南信版には「九日止宿先の温泉ホテルに同君を訪問すると、小さな注射器を片手に持って足部に葡萄糖の注射をしているところ」と記されている[4]
  6. ^ 当時、芳子と交流のあった李香蘭(山口淑子)は、芳子から『笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ』と勧誘された事を自著に記している[5]
  7. ^ 芳子は1939年頃に療養のため福岡に滞在したが、この際に交流のあった人達との間で交わした和歌が残されている。私的に書かれたもので長く公表されなかったが、没後50年以上を経て歌集『真実の川島芳子』として発表された。また、福岡滞在時代に交流した女性が芳子との思い出をつづった『孤独の王女川島芳子』を2004年に出版している。
  8. ^ 芳子に日本国籍があれば漢奸罪は適用されない可能性もあったが、養父の川島浪速は芳子は養女として入籍しておらず、また芳子の帰化手続きを行なっていなかった。そのため芳子が漢奸罪で国民党に訴追された時に日本人と認められなかった。しかし、当時の中国国籍は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらずその者は中国人とみなされ、漢奸罪を適用することも可能だった。
  9. ^ 李香蘭も同様に漢奸裁判にかけられたが、李香蘭の場合は両親ともに日本人でありかつ日本国籍があったために釈放されている。一方血統的に日本人でも日本国籍から離脱し中国籍になっていた伊達順之助は処刑されている。
  10. ^ これは生存説2番目の「末期癌の女性の身体が身代わりにされた説」と共通する部分が多いが、仔細では異なっている。
    空砲を用いた拳銃で周囲の人間の目をごまかしたとされるが、この際に使用された拳銃の種類(自動式もしくは回転式)や、処刑の方法(犯罪者としての処刑もしくは軍人としての銃殺刑)についての情報が欠如しているため、トリックの可否を以って同説の信憑性の判断ができないため、現状ではディテールの検証にたえない風説のレベルに止まっている。
  11. ^ ただし川島芳子の写真は、現在の中国で大量に出回っており、その写真を基に似顔絵を書けばいくらでも似たものが作れる。
  12. ^ これにより、戸籍や名前がない人間が中国共産党政権下で隠れ住むのはおかしいという疑問も解消されることになる。張鈺が方おばあさんと呼んでいた老婦人は芳子と無関係の一般婦人であったならば矛盾はなくなる。

出典

  1. ^ 愛新覚羅, 顕琦 (2020) (日本語). 清朝の王女に生れて 日中のはざまで (改版5刷 ed.). 中央公論新社. p. 37. "川島芳子は私の家では、女の子の十四番目に当たり、本名は顕㺭 (けんし) です。" 
  2. ^ 『男装の麗人・川島芳子伝』(文春文庫)(1988-05) 上坂冬子著/文藝春秋 ISBN 4-16-729805-8
  3. ^ 河西善吉『昭和の天一坊 伊東ハンニ伝』(論創社、2003年) ISBN 4-8460-0335-3 第六章 新東洋の夢 p167~p200
  4. ^ 「男装の麗人・川島芳子伝」(文春文庫) (1988-05) 上坂冬子著/文藝春秋 ISBN/ASIN:4167298058
  5. ^ 「李香蘭 私の半生」(新潮文庫) 山口淑子, 藤原作弥(著)/新潮社 ISBN 4101186111
  6. ^ 東洋のマタ・ハリ」は生きていた?=処刑逃れ、78年まで長春で-中国紙 2008年11月15日
  7. ^ 我方姥就是川岛芳子新文化網 2008年11月5日 (中国語)
  8. ^ 最新证据表明川岛芳子诈死隐居长春30年 (川島芳子特設ページ) 2009年4月20日 新文化網 (中国語)
  9. ^ “【グローバルインタビュー】男装の麗人、川島芳子は生きていた(上)野崎晃市・長春大講師 - MSN産経ニュース”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2009年6月13日). オリジナルの2010年8月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100825211347/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090613/chn0906130800000-n1.htm 2019年3月2日閲覧。 
  10. ^ “【グローバルインタビュー】男装の麗人、川島芳子は生きていた(下)野崎晃市・長春大講師 - MSN産経ニュース”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2009年6月14日). オリジナルの2010年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101014112830/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090614/chn0906140800000-n1.htm 2019年3月2日閲覧。 
  11. ^ 報道発 ドキュメンタリ宣言・川島芳子特集ページ
  12. ^ [1][2]长春城市文化论坛
  13. ^ 張鈺の祖母庄桂賢の写真 段家集合写真の前列の老婦人が庄桂賢
  14. ^ 长春城市文化论坛 (新文化報)2008年11月7日
  15. ^ [3]长春城市文化论坛
  16. ^ 长春城市文化论坛
  17. ^ [4]
  18. ^ 2009年12月15日 exciteニュース
  19. ^ 「東洋のマタ・ハリ」やはり処刑? 台湾で公文書発見 2010年1月19日 朝日新聞
  20. ^ [5]


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