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高橋修二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 08:40 UTC 版)

高橋 修二
基本情報
国籍 日本
出身地 高知県
生年月日 1956年
身長
体重
174 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高橋 修二(たかはし しゅうじ、1956年 -)は、高知県出身の元アマチュア野球選手(投手)。

来歴・人物

高知高等学校では、1974年にエースとして春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は、2回戦で横浜高永川英植と互いに無失点で投げ合い、延長12回に杉村繁の中越え適時打でサヨナラ勝ち。準々決勝に進むが和歌山工に敗退した[1]。同年夏の選手権は2回戦(初戦)で中京商原田末記に抑えられ惜敗[2]

卒業後は住友金属に入社、森繁和1979年にプロ入りした後はエースとして活躍する。同年の社会人野球日本選手権では3勝を挙げ、準決勝では協和醱酵津田恒美に投げ勝つ。決勝は川端理史との継投で松下電器を完封し優勝、最高殊勲選手賞を獲得した[3]。しかし1980年には石井毅が入団、リリーフに回る。1982年都市対抗では準々決勝でヤマハ発動機と対戦、石井をリリーフして好投しチームの優勝に貢献した[4]1983年に石井がプロ入り、再びエースに復帰し同年の社会人野球日本選手権で決勝に進出。東芝青木秀夫黒紙義弘と投げ合い2-0で完封勝利、再び最高殊勲選手賞を獲得した[3]。翌1984年社会人野球日本選手権嶋田宗彦とバッテリーを組み4試合全てに先発、決勝で日本通運を抑え連続優勝、3度目の最高殊勲選手賞を獲得した[3]。同年の社会人ベストナインに選出される。1985年には第10回アジア野球選手権大会日本代表となった。1989年都市対抗では10年連続出場選手として表彰を受ける[4]

脚注

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c 「社会人野球日本選手権大会20年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1994年
  4. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目




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