プロ野球オーナーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 03:07 UTC 版)
「田村駒治郎」の記事における「プロ野球オーナーとして」の解説
プロ野球との関わりは、1937年夏に義弟(妻の妹の夫)である共同印刷専務の大橋松雄から、大東京軍に資本参加してほしいという依頼を受けたところから始まる。訪米時よりプロ野球に関心を持っていた駒治郎はこれを引き受け、同年のシーズン終了後にはチームを買い取った。駒治郎が資本参加した時期よりチーム名は「ライオン軍」となる。邸宅の一楽荘には合宿所と練習用のグラウンドを設け、関西の試合では夫人を伴って必ず観戦した。チーム名は戦争中の英語使用禁止により、ライオン軍から朝日軍へと変更となる。 太平洋戦争末期、戦争の激化でプロ野球の中止が決まった際にも最後までこれに抵抗し、戦後はいち早く田村駒の東京別邸(赤坂に所在。後に日本銀行総裁公邸となる)を各球団実務者の会議場に提供するなど、リーグの維持・再開に尽力した。一方、自らのチームであった朝日軍は、奈良県御所市(当時は御所町)の疎開先からマネージャーの橋本三郎らの独断でゴールドスターとしてリーグに加盟申請したため、改めてチーム作りを余儀なくされるなど波乱の中での復興となる。田村駒で秘書として勤務していた藤本定義を監督に据えて1946年よりパシフィックとして再開。戦争での中断による選手の帰属問題にも悩まされ、1946年には連盟から帰属球団未決着とされていた白石勝巳・藤井勇を監督の藤本が出場させたために没収試合を命じられる憂き目にもあった。 中野晴行の著書『球団消滅』では、電鉄会社や新聞社などの公益企業が運営する球団が大半の中で、個人オーナーである駒治郎は他の球団関係者と立場が違っていたこと、人気チームの巨人や阪神の意向が優先する連盟に駒治郎が不満を抱いていたことが記されている。駒治郎はプロ野球に関しては、ライオン軍への出資以来のつきあいであった鈴木龍二に頼らざるを得ず、鈴木の巧妙な立ち回りに翻弄される面もあった。 1948年には大阪市北区の玉江橋近くに球場を建設する構想を立てるが、阪神や阪急がこれに反対。やがて南海が難波に新球場を建設する構想を表明して、これに競合する形となる。連盟はいずれか一つを認めることとなり、現地視察の後に南海の構想を認めた。駒治郎は「南海が一年で球場を作らなければ、独自に球場を作る」と抵抗したが建設はかなわなかった。 「験直し」でチーム名を変更したこともよく知られており、1947年にかつての子会社太陽レーヨンと駒治郎の「駒」に因んで「太陽ロビンス」とした(ロビンは駒鳥の意)。翌1948年には「野球は点を取らなあかん、野球選手が太いのはあかん」と「太」の点を取って「大陽ロビンス」としたが、いずれも成績は上向かなかった。ただし、駒治郎はオーナー在任中、田村駒を初めとする自らの経営する企業の名前を宣伝目的でチーム名に入れたことはなかった(太陽レーヨンはその時点では存在していなかった)。ライオンや松竹はいずれもスポンサーとして命名権を募ったものである(ただし、松竹は事実上の共同オーナーとして役員を派遣するなど、運営にも多少関与した)。 「プロ野球は百年の森林事業のようなもの」と大所高所から発展を望み、地元密着のホームグラウンド制を提唱したり、経営安定化のため球団数の急激な増加に反対した。大映の永田雅一が参入を企図したときにも「それだけの覚悟があるとは思えない」と反対している。戦後に横行した選手の引き抜きなどに手を焼いた駒治郎は、1951年の訪米時に、サンフランシスコ・シールズを通じてアメリカの野球協約である「ブルーブック」を持ち帰り、これが今日の日本の野球協約の基礎になっている。 一方で監督や選手のタニマチとして振る舞うワンマンオーナーの側面も見せ、思い通りにチームが勝たないと監督との対立によって辞任を引き起こすことも一度ではなかった。中野晴行は、駒治郎は選手を「好きな選手とそうでない選手」に分け、好きな選手はとにかくかわいがり、そうでない選手は「所有物」という意識しか持てなかったのではないかと記している。「好きな選手」としては、合宿所ではなく一楽荘の離れに住み込ませた真田重蔵がその例である。監督ではあるが藤本定義も巨人の監督退任後に田村駒の秘書として面倒を見、妻をなくした藤本に後妻の紹介もしている。 球団経営の安定化のため、選手の年俸アップには消極的だった。松竹ロビンス監督に就任した小西得郎がリーグ優勝の際の年俸アップを申し出たときには(関西弁の拒絶の意味で)「考えとく」と返答したが、江戸っ子の小西はこれを字義通り受け取り、シーズン終了後の退任の一因となった。 1950年のシーズン終了後、2軍を整理して田村駒に移籍させ、クラブチームを結成すると発表した。経営合理化の上に戦争中に解散したチームが復活でき、見込みのない選手には会社員として給与を与えながら野球をさせた方が生活が楽になって一石二鳥だという考えからであった。しかし、選手育成のため2軍の充実を図っていた他球団の関係者はこの話に呆れ、慰留していた小西からは辞任の口実にされてしまった。 また、自分の感情を害するような事態に遭遇すると、上記の「大所高所の発言」とは矛盾するような行動や言動に出ることもあり、しかもそれを矛盾と考えない点があった。毎日新聞が球界参入に向けて動いていた折、駒治郎は毎日新聞側にロビンスのスポンサーになることを持ちかけるが、毎日側は拒否。まもなく「田村駒は経営難で球団売却を考えている」という噂が出ると、駒治郎はその出所が毎日新聞かその周囲の関係者と考え、「毎日を潰せ」という考えで朝日新聞にスポンサーを持ちかけたという。 ロビンス選手の引退後の生活安定を目的に、アメリカで見たイエローキャブをヒントに「ロビンス交通」というタクシー会社を1951年9月に設立し、選手数名を役員(現役中は非常勤)として彼らに役員手当が出るよう便宜を図っている。役員の一人だった石丸藤吉(ロビンス交通では専務)は、1953年に独立して自らタクシー会社(親和交通)を起こした。 リーグ分裂の原因となり、松竹ロビンスが出場した最初の日本シリーズで敗れた毎日オリオンズに対するこだわりは後年まで残った。1960年の日本シリーズで松竹ロビンスの合併先だった大洋ホエールズが大毎オリオンズにストレート勝ちを収めた際には、悪化していた体調が持ち直したという逸話が残っている。 駒治郎が晩年、病を抱えていた折には「会社がこんな状態では死ぬに死ねんが、万が一、ぼくが死んでも生活の方は心配せんとってくれ。無一文で放り出されても、大丈夫や。鈴木(龍二)はんと約束をしてある。プロ野球をのチームをまたつくる権利があるんや。残った財産を処分すれば、いろいろ借財を返してもチームひとつつくる金は残る。それで、チームを持てばあんじょう やっていける。」という言葉を家族に伝えた。家族は「約束」の真偽を確認しなかったが、最後まで野球チームを持つ思いを抱き続けたことがうかがわれる。
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