岩垂邦彦とは? わかりやすく解説

岩垂邦彦

読み方いわだれくにひこ

岩垂邦彦とは、半導体通信機メーカーある日電気株会社NEC)の創設者として有名な企業経営者である。1857年安政4年8月15日福岡県生まれ

工部大学校電信科(現・東大工学部)を卒業した岩垂邦彦は、政府工部省電気技師仕事をしていた、やがて知人紹介得て渡米した。(入社したのはエジソン・マシンワークス社で、現在のゼネラル・エレクトリックGE)社の前身のひとつとなっている。岩垂邦彦は、エジソン直接接した日本人一人としても有名である)。

岩垂邦彦は、アメリカで勤務経験経て、「日本において電灯会社設立する」ことを志して帰国する1888年現在の関西電力前身である大阪電灯入社し初代技師長に就任日本発の交流発電機導入するなどの功績をあげた。1894年には岩垂電気商店設立し1895年アメリカウェスタン・エレクトリック(現ルーセント・テクノロジーズ社)とのパートナーシップを結び、ウェスタン・エレクトリック社の日本における営業代理店となった。その翌年日本欧米諸国の間の条約改正されたことに伴って7月アメリカウェスタン・エレクトリック社と岩垂邦彦らの出資により日本電気株式会社として設立ウェスタン・エレクトリック社が54%保有しNEC日本で初となる外国資本との合弁会社となった岩垂社長に就任NEC牽引していった。

岩垂邦彦
※画像提供 / 日本電気株式会社(NEC)

岩垂邦彦は、1926年取締役社長から取締役会長就任1929年退任した1934年には、その功績称えられ勲五等瑞宝章受賞している。そして1941年逝去した。

その後日本電気は、電灯電線事業から、通信・エレクトロニクス事業へと展開していった。短波放送機やトランジスタ計算機はじまり、日本発の人工衛星おおすみ」、国内パソコンデファクト・スタンダードとして80年代市場圧倒したPC-9800シリーズ」、稼動開始から5年わたって世界高性能の座を保持し続けたスーパーコンピュータ地球シミュレータ」など、多く革新的製品世に生み出していった。現在NEC日本最大電気系メーカーひとつとして世界的に事業展開している。


更新2006年1月
参照リンク
NEC Japan
NEC会社沿革

岩垂邦彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/13 12:05 UTC 版)

岩垂邦彦

岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日1857年10月2日) - 昭和16年(1941年12月20日)は技術者日本実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等

来歴

豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった[1]

父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。しかし、国家に尽くすことが真の孝行と考えて仇討ちを断念し、豊津に戻ると1870年(明治3年)[要検証]に小倉藩が開校した育徳館およびその分校である洋学校で学ぶ。1875年(明治8年)に再度上京して同年10月工学寮の予備教育校に入学。翌年4月に工学寮(在学中に工部大学校に改組)に官費入校した。1882年(明治15年)に工部大学校電信科(現:東京大学工学部)卒業後、工部省の電気技師として従事する。1886年(明治19年)に横浜にあるフレーザー商会の紹介状を手に渡米し、エジソン・マシンワークス(現:ゼネラル・エレクトリック)に入社。テスティング・ルームと呼ばれるトーマス・エジソンの施設で勤務する。

1888年(明治21年)に大阪電灯関西電力の前身企業の一つ)の設立にあたり、技師として招聘を受けるとともに発電機の調達を求められる。この際、当時の電流戦争でエジソンが直流を主張していたにもかかわらず、岩垂は交流を支持。エジソン・マシンワークスと対立するトムソン・ウェスタンから交流発電機を調達した。帰国後、大阪電灯の技師長に就任。その後、大阪電灯が発電機などを自社生産する動きを見せると、トムソン・ウェスタンが合併したゼネラル・エレクトリック(GE)との信義にもとるとして退社。1894年(明治27年)、岩垂電気商店を設立した。GEは日本での販売代理権を岩垂に与え、岩垂電気商店はGE製品の輸入販売を手がけた。

1895年(明治28年)、ウェスタン・エレクトリック(AT&Tテクノロジーからルーセント・テクノロジーズを経て現・アルカテル・ルーセント)の販売代理権を得て営業代理に配属。これを期に岩垂とウェスタン・エレクトロニック社とパートナーシップを結ぶことになった。1898年(明治31年)3月、ウェスタン・エレクトリックは、沖電機工場(現・沖電気工業)に合弁会社の設立を申し入れ、日本での代理人であった岩垂は、沖牙太郎の申し出により仲介者として交渉に当たったが[2][3]、条件が折り合わずに交渉は不成立となる[3][4]。決裂理由として沖が技術国産主義に拘ったなどの説がある[2][5][6][7][8]。これを受け、岩垂は自ら会社を興して合弁の受け皿とすることを申し出て新会社が同年8月に発足した。この際、岩垂は経営不振に陥っていた三吉正一の三吉電機工場を買収し、これが本社工場となった。その翌年、日本及び欧米諸国間の条約が改正されて合弁会社設立へとなり、1899年(明治32年)7月17日に日本電気株式会社を設立、取締役専務に就任した。

1926年(大正15年)に取締役会長に就任し、1929年(昭和4年)に退任した。1934年(昭和9年)、これまでの功績が称えられ、勲五等瑞宝章を受章した。墓所は横浜市総持寺

2009年11月、故郷のみやこ町にある福岡県立育徳館中学校・高等学校(育徳館の後身)に記念碑が建立された。

家族

脚注

  1. ^ 宇山安夫 (1973年). “わが銀海のパイオニア : 明治以後における眼科の人々”. dl.ndl.go.jp. 千寿製薬学術部. p. 104. 2025年1月12日閲覧。
  2. ^ a b 第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI
  3. ^ a b 『日本の創業者 近現代起業家人名事典日外アソシエーツ、2010年、P326。
  4. ^ 沖電気工業『進取の精神 沖電気120年のあゆみ』2001年、P23 -26[1]
  5. ^ 沖のあゆみ 電話拡張計画実施でトップメーカーに/WE社との提携交渉
  6. ^ 最初の197回線 - NTT
  7. ^ 沖牙太郎と 岩垂邦彦―(日本の企業家活動シリーズNo.50) - 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
  8. ^ 電気通信機ビジネスの発展と企業家活動. ―沖牙太郎と岩垂邦彦―.
  9. ^ 毛利元良人事興信録 第14版 下、1943
  10. ^ 喜田村朔治『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  11. ^ 岩垂亨『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  12. ^ a b 万有製薬(株)『万有製薬八十五年史』(2002.07)渋沢社史データペース
  13. ^ 鉄と鋼第44年1号
  14. ^ 十合晋次人事興信録 第15版 上、1948
  15. ^ 岩崎電気主要部変わる照明学会雑誌第49巻 第8号 1965
  16. ^ a b 天野春一人事興信録 第14版 上、1943
  17. ^ 喜田村正次コトバンク
  18. ^ 小川コータ (2020年12月15日). “ひいひいじいさん”. 発明家ミュージシャン小川コータ. note. 2023年11月15日閲覧。

関連項目

外部リンク




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