正岡子規の評価、紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
明治25年(1892年)頃から、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶のことを注目し始めたと考えられている。子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897年)刊行の「俳人一茶」の中で、一茶の句の特徴は滑稽、風刺、慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。また子規の門人であった佐藤紅緑は、世間一般では一茶の知名度は低く、たとえ知っていても川柳作者に近い俳人といったイメージしかなかったが、師匠の子規は一茶の価値を認めており、その魅力について教えられ、おかげですっかり一茶に傾倒するようになったと回想している。 なお、正岡子規が一茶についての評論を載せた「俳人一茶」は、宮沢義喜と宮沢岩太郎が編集し、正岡子規の校閲、批評を加えて東京の三松堂から出版された。この「俳人一茶」は、内容的に不備や不正確さを抱えながらも、まとまった形で一茶の伝記、作品が全国レベルで書籍化された初のケースであった。「俳人一茶」は世間での一茶の評価を高め、これまで俳句界における知名度は決して低くなかったものの、基本的に地方の一俳人に過ぎなかった一茶が、芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価を生み出すきっかけとなった。
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