正岡子規との出会いとは? わかりやすく解説

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正岡子規との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:44 UTC 版)

夏目漱石」の記事における「正岡子規との出会い」の解説

1889年明治22年)、金之助は同窓生として漱石多大な文学的人間的影響与えることになる俳人正岡子規出会う子規が手がけた漢詩俳句などの文集七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評巻末漢文書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初め漱石という号を使う。漱石の名は、唐代『晋書』にある故事漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れ枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者例えである。「漱石」は子規数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石子規からこれ譲り受けている。 同年9月房州房総半島)を旅した時の模様漢文したためた紀行木屑録』の批評子規求めるなど、徐々に交流深まっていく。漱石優れた漢文漢詩見て子規驚いたという。以後子規との交流は、漱石イギリス留学中1902年明治35年)に子規没するまで続く。 1890年明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学英文科入学この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年明治20年)の3月長兄大助死別同年6月次兄夏目栄之助と死別。さらに直後1891年明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世死別し次々近親者亡くしたことも影響している。漱石登世恋心抱いていたとも言われ江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世対す気持ちしたためた句を何十首も詠んでいる。 翌年特待生選ばれJ・M・ディクソン教授依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年明治25年)、兵役逃れのために分家し貸費であったため、北海道岩内町に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費稼ぎ始める。漱石子規早稲田辺り一緒に散歩することもままあり、その様子規は自らの随筆墨汁一滴』で「この時余驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこのの実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日大学夏期休業利用して松山帰省する子規とともに初めての関西方面の旅に出る。夜行列車新橋経ち8日京都到着して泊し10日神戸子規別れて11日岡山到着する岡山では、次兄栄之助の妻であった小勝実家片岡機邸に1か月あまり逗留するこの間7月19日松山の子規から、学年末試験落第したので退学する記した手紙が届く。漱石は、その日午後翻意促す手紙書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句添える。その後8月10日岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石職業作家の道へ誘うことになる当時15歳高浜虚子出会う子規1893年明治26年3月大学中退

※この「正岡子規との出会い」の解説は、「夏目漱石」の解説の一部です。
「正岡子規との出会い」を含む「夏目漱石」の記事については、「夏目漱石」の概要を参照ください。

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