牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
俳句稿 |
前 書 |
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評 言 |
芭蕉以来の俳句の伝統を「月並み俳句」と一喝した子規ですが、自身の俳句には名句と呼べるものが多くはないです。子規は新しい芸術観の旗振り役としての功績の方が大きいのです。 子規は、それまでの膨大な俳句を研究・分類した結果、芭蕉より絵画的な蕪村の句を高く評価しています。子規が「月並み俳句」と揶揄した例句を挙げてみます。 朝顔に釣瓶取られてもらひ水 加賀千代女 やさしい人情を詠った名句とされていますが、子規は、作者の意図をあからさまに読み込むのは邪道であり、朝顔の蔓が巻きついている様子を写生すべきだと言っているのです。俳人特有の風流ぶったり利巧ぶったりした句は陳腐で卑俗なことだと非難したのです。 「牡丹」の掲句、「牡丹の絵を描き終わったとき、絵皿に鮮やかな色が残っている」というのです。今までの月並み俳人からすればそんなの当たり前じゃないかと言われそうです。絵に描かれた牡丹でない、真白な絵皿に残った絵の具に心動かされたのです。描かれた牡丹は作意そのもの。絵皿に残る絵の具は作意の全く介入していない美。絵は「月並み」の技巧と捉え、絵皿に残った絵の具はありのままの美しさで作意がないというのです。主観を排した見たまま、ありのままの感動こそ尊いと唱えたのです。新しい美・新しい視点を発見したのです。知識や感情ではなく、純粋で客観的な美を偏見なしに切り取ったのです。子規の主観を排除した偉業は俳句のみに止まらずに芸術全般に及びました。子規の35歳という短い命をかけた人生は芸術の革命だったのです。 |
評 者 |
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備 考 |
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