瀬川嘉助とは? わかりやすく解説

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瀬川嘉助

(瀬川疎山 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 06:12 UTC 版)

瀬川嘉助

瀬川 嘉助(せかわ かすけ、1880年明治13年)5月24日[1] - 1942年昭和17年)2月6日[2])は、明治から昭和前期の実業家政治家衆議院議員

経歴

岩手県[2]東和賀郡黒沢尻村(黒沢尻町和賀郡黒沢尻町[3][4]を経て現北上市)で、瀬川理三郎[注釈 1]の二男として生まれ、瀬川トクの養子となる[5]。1900年(明治33年)家督を相続し帯鋸製作業を営む[5][6]

中外時計専務取締役、築地電軌監査役、名古屋証券交換所取締役、甲陽土地取締役、芝園工作所取締役、名古屋市白鳥線土地区画整理組合長、名古屋薬学専門学校(のち名古屋薬科大学)常任理事などを務め、愛知県時計同業組合長となった[2][3][4][5][6]

政界では、愛知県会議員、同参事会員、都市計画愛知地方委員会委員、名古屋市会議員、同市財政調査会委員などを務めた[2][3][4][5][6]。1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙に愛知県第1区から立憲政友会公認で出馬して当選し[6]、以後、1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[2][4]

著作

  • 瀬川疎山編『紅葉山人俳句集』帝都社、1904年。
  • 瀬川疎山編『戦争俳句:附・時局川柳』帝都社、1904年。
  • 瀬川疎山編『子規句集』文山堂、1908年。

脚注

注釈

  1. ^ 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』セ之部1頁では理次郎。

出典

  1. ^ 衆議院『第六十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、14頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』341頁。
  3. ^ a b c 『粛正選挙代議士名鑑』114頁。
  4. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴』242頁。
  5. ^ a b c d 『人事興信録 第13版 上』セ4頁。
  6. ^ a b c d 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』セ之部1頁。

参考文献

  • 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』帝国日日通信社、1935年。
  • 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
  • 衆議院事務局編『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



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