ミスタータイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 00:35 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2024年4月) |
ミスタータイガース(またはミスター・タイガース[1])は、日本プロ野球・セ・リーグの球団、阪神タイガース(旧・大阪タイガース)の中心選手に対して与えられる称号である。
定義
「ミスタータイガース」はあくまでファンやメディアなどが与える称号であり、球団によって指名される訳でもなく、公式にこれを認定する団体なども存在しない。そのため明確な定義は存在せず、対象選手はまちまちである。
ミスタータイガースの条件として挙げられるのは、例えば、
- タイガースの中心選手であること。
- 同時代に他にミスタータイガースがいないこと。
- プロ入りから引退までタイガース一筋であること。
- 優勝に貢献したこと。
などといったものであるが[2]、後述する通りこれらの条件を満たさずともミスタータイガースと呼ばれる選手も存在しており、条件として確実であると言えるのは「タイガースの中心選手であること」のみである。
対象選手
藤村富美男

本来、ミスタータイガースの呼称は藤村富美男に対して与えられたものである。
藤村は、1935年の球団創立時からチームに在籍しており、20年以上攻守にわたってチームの中心選手として活躍し、4度の優勝にも貢献。特に、1948年からはゴルフクラブを参考に「物干し竿」と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、闘志溢れるプレースタイルがファンから絶大な支持を得た。この時代、戦後の復興期にあって、藤村の人気は関西圏の野球ファンを一気に増加させ、タイガースを象徴する存在であるとして、「ミスタータイガース」との呼称が考案された[3]。
当時を知るタイガースファンの中には、「ミスタータイガースに初代も二代目もなく、藤村富美男だけが『ミスタータイガース』である」として、藤村以外の選手をミスタータイガースと認めない者も多い。ファンだけでなく、共にタイガースでプレーした後輩の吉田義男、ライバルチームの主力選手であった青田昇らも、「ミスタータイガースは藤村だけである」と明言している[4][5]。
なお、藤村は「初代ミスタータイガース」と呼ばれる[6]。
村山実
藤村のみをミスタータイガースと呼ぶ立場を除けば、ほぼすべてのファンから藤村と並んでミスタータイガースと認められているのが村山実と掛布雅之である。[要出典]
1959年3月2日、藤村の引退試合でプロ初登板を飾った村山は、その後瞬く間にエースの座へと上り詰め1962年・1964年のリーグ優勝に貢献、1962年にはMVPを獲得するなど活躍した。ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄との対決に魂を燃やす姿や「ザトペック投法」と呼ばれる闘志溢れる投球フォームで人気を博し、やがて藤村の後継者として「二代目ミスタータイガース」と呼ばれるようになった[7][8]。
田淵幸一
ファンやメディアによって最も扱いが分かれる選手が田淵幸一である。[要出典]
田淵は、1970年代に強肩強打の捕手として活躍し、1975年には本塁打王のタイトルも獲得した。村山引退後、田淵は数多くのファンから「三代目ミスタータイガース」(あるいは「三代目ミスタータイガース候補」)と呼ばれていたが、1978年にトレードで西武ライオンズへ放出された。トレード以降は、「プロ入りから引退までタイガース一筋という条件に反するから、田淵はミスタータイガースではない」とするファンが多数を占めるようになり、前述した掛布を田淵に代わって「三代目ミスタータイガース」と呼ぶようになる。[要出典]
しかし、田淵自身は「阪神が好きだ」「阪神でずっとやっていきたい」「(阪神で)優勝ができなかったことに悔いが残る」などと語っており、このトレードは田淵の意に反したものであった。このことを考慮して「田淵は自らの意思でタイガースを出たわけではないから、三代目ミスタータイガースはやはり田淵である」とし、掛布はあくまで四代目ミスタータイガースであるとするファンも少数派ながら存在した[要出典]。そして2002年に田淵がチーフ打撃コーチとして球団に復帰し、翌2003年に18年ぶりの優勝を果たして以降は、田淵は三代目ミスタータイガースと称されている[9][10]。
阪神在籍10シーズンで4番打者としての出場数812試合(チーム歴代3位)本塁打247本(チーム歴代1位)574打点(チーム歴代3位)の成績を残した[11]。
掛布雅之
村山引退の1年後にタイガースに入団した掛布雅之は、1979年にかつての藤村と同じ「4番・三塁手」に定着。同年に本塁打王に輝く活躍を見せてチームの中心選手として認知されるようになり、以降も不動の4番打者として活躍、1985年には球団史上初の日本一にも貢献した[12]。このことから「四代目ミスタータイガース」[13][14][9]または「三代目ミスタータイガース」[要出典]と呼ばれるに至っている。なお、掛布については引退後に長くタイガースのコーチや監督に就任せず、ライバルの読売ジャイアンツの系列局である日本テレビ・読売テレビで解説の仕事をしていたことから、「もはやミスタータイガースではない」と除外する声も一部にあったが、2014年からスタッフとしてタイガースに復帰し、2016年・2017年には二軍監督も務めたことで、このような見解はほぼ見られなくなっている。[要出典]
その他の選手
大多数からミスタータイガースと認められるのは以上の3名ないし4名であるが、ファンによってはその他の選手をミスタータイガースと呼ぶこともある。
「ミスタータイガース」という概念が存在しなかった時代の選手としては景浦將が挙げられる。沢村栄治と並ぶ日本プロ野球黎明期の看板選手であり、戦前のタイガースにおいて投打の中心選手として活躍、その後若くして戦死したことを称え、初代・藤村から遡って景浦を「零代ミスタータイガース」とすることがある[15]。なお、景浦が着用していた背番号6は、藤田平、和田豊、金本知憲といった中心選手に代々受け継がれており、甲子園歴史館では「栄光の背番号」として紹介されている。
また、若林忠志、小山正明、吉田義男、江夏豊、ランディ・バースといった人気選手は、それぞれ同時代に一般的に認知されたミスタータイガースが他に存在するものの、併せてミスタータイガースと呼ばれることがある。
掛布以降の選手では、金本や藤川球児を始め、真弓明信、岡田彰布、和田豊、新庄剛志[16]、桧山進次郎、今岡誠、鳥谷敬、赤星憲広、大山悠輔[17]、佐藤輝明など[18]、多くの選手が「ミスタータイガース候補」として名前を挙げられてきているが、いずれも多数のファンが一致して「ミスタータイガース」と呼ぶまでには現状では至っておらず、そのため「掛布引退以降はミスタータイガース不在である」とする見解が多数派である[12]。
他球団への波及
![]() | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年8月) |
藤村への憧れを公言していた長嶋茂雄がミスタータイガースに倣って「ミスタージャイアンツ」と呼ばれるようになると、その他にも、山本浩二の「ミスター赤ヘル」、若松勉の「ミスタースワローズ」、有藤通世の「ミスターロッテ」、田中幸雄の「ミスターファイターズ」、鈴木啓示の「ミスターバファローズ」、立浪和義の「ミスタードラゴンズ」といったように、中心選手に「ミスター○○」の称号を与えることが球界全体で慣例化することとなった。
特に長嶋はその活躍ぶり・人気ぶりから、チームの枠を超えた「ミスタープロ野球」とも称され、「ミスター」という愛称が一般的になっている。
MLB
現役22年間をデトロイト・タイガース一筋で過ごしたアル・ケーラインは"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。
脚注
注釈
出典
- ^ “阪神タイガース ミスター・タイガースがそろい踏みする最強オーダー/球団別オールタイム・ベストオーダー”. 週刊ベースボールONLINE (2018年6月12日). 2024年5月5日閲覧。
- ^ 十乗院潤一『ミスター・タイガース藤村富美男伝』データハウス、1992年、等。
- ^ 『プロ野球最強列伝』双葉社、2008年、138頁。
- ^ 日刊スポーツ『我が野球人生吉田義男徹』2007年12月22日。
- ^ 南萬満『真虎伝』新評論、1996年、150頁。
- ^ “藤村富美男実”. 野球殿堂博物館. 2024年4月3日閲覧。
- ^ 村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社、1993年。
- ^ “村山実”. 野球殿堂博物館. 2024年4月3日閲覧。
- ^ a b “虎党必聴!“ミスタータイガース”田淵氏&掛布氏が共演、思い出話に花”. スポーツニッポン (2020年12月26日). 2024年4月3日閲覧。
- ^ BBM『阪神タイガース70周年記念カード』2005年、ミスタータイガースカード4種(藤村富美男・村山実・田淵幸一・掛布雅之)等。
- ^ “【野球】過去104人が務めた“猛虎の4番”最も多く本塁打を打ったのは?”
- ^ a b 掛布雅之『「新・ミスタータイガース」の作り方』徳間書店、2014年。
- ^ “ミスタータイガース・掛布雅之氏が語る「阪神・四番の条件」とは”. AERA. 2024年4月3日閲覧。
- ^ “掛布雅之”. 週刊ベースボール. 2024年4月3日閲覧。
- ^ “金本知憲氏が戦前の強打者・景浦将氏に思いをはせる”. 日刊スポーツ. (2015年8月4日) 2019年3月19日閲覧。
- ^ 立木義浩『新庄剛志 星を掴む男―新・猛虎伝説ミスタータイガースへの道』ビクター音楽産業第2、1993年(書籍およびVHS)等。
- ^ “阪神・大山も「ミスタータイガース」だ!5年連続60打点、生え抜きでは藤村、田淵、掛布に続き38年ぶり”. Sponichi Annex. (2023年8月20日)
- ^ “【野球】阪神・佐藤輝の「ミスタータイガース」襲名は、4番が必要十分条件ではない”. デイリースポーツ online. (2022年3月24日)
ミスタータイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:53 UTC 版)
1936年、プロ野球リーグ(日本職業野球連盟)が開幕。タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦完封勝利の第1号である)を挙げる。また、7月15日に山本球場で行われたタイガースにとって初の東京巨人軍との試合では若林忠志のリリーフという形で勝利投手となり、大阪タイガースにとって対巨人戦初の勝利投手となった。好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には、投手ということもあって規定打席に不足ながら本塁打王創設後では日本記録となる2本塁打で初代本塁打王に輝いた。 1937年からは本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの2連覇に貢献。しかし当時のタイガースは景浦將、山口政信、松木謙治郎、藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。 1939年から1942年までは兵役のため南方戦線に出向いていたため、出場できなかった。1943年に除隊し夏のシーズンから復帰。その年は4年半に及ぶ長い軍隊生活で思うように体が動かず、34試合で2割2分、本塁打0とプロ入り以来最悪の成績に終わる。しかし翌1944年は戦力の落ちた阪神で主軸となり、4番打者に定着して打点王を獲得、優勝に貢献した。この年夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされた。 戦後は復員後早々の1945年11月23日に行われた戦後初のプロ野球公式戦、明治神宮野球場の東西対抗戦に西軍3番で先発出場。5回表に東軍の白木義一郎から放ったセンターオーバーのランニングホームランは、戦後のプロ野球初本塁打といわれている。リーグ戦が再開した1946年には監督を兼任。これは高卒選手として初のプロ野球監督就任。クリーンナップ(5番)に座り、打率.323を記録する傍ら、戦後の投手不足のため投手としても登板した。試合の後半、投手が四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板した。この年、13勝2敗、リリーフだけなら8勝0敗の成績を残している。同年の31二塁打は本堂保次の、48長打は川上哲治の日本記録を6年ぶりに更新した(長打は翌年に大下弘が更新)。シーズン終了後、監督は若林に交代した。 1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。同年は36二塁打で前年の自身の記録を更新した。 1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人曰く笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37〜38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。同年10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録、更にこの年日本プロ野球初の年間100打点も記録した。この年は日本記録(当時)となる572打数で64長打のシーズン記録を放つ(当時)。 1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残す。しかも、自身の本塁打記録が本塁打王創設後で日本記録になるのは2度目である。366塁打・84長打・長打率.6501も1リーグ時代最高。首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかったが、藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。チームが6位だったにもかかわらず、MVPを獲得。この年の藤村の大活躍は多くの大阪の人の心をつかんだ。タイガースに対する大阪人の特別な愛情はこの時生まれた。この頃から人々は藤村を「ミスタータイガース」と呼ぶようになり、ファンから絶大な支持を得ている。巨人に阪神というライバルがいたからこそプロ野球という船は波に乗った。藤村のように人生を野球に賭けた男がいたから航路に光が射したのである。
※この「ミスタータイガース」の解説は、「藤村富美男」の解説の一部です。
「ミスタータイガース」を含む「藤村富美男」の記事については、「藤村富美男」の概要を参照ください。
- ミスタータイガースのページへのリンク