ロシアのブルシーロフ攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:02 UTC 版)
「東部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ロシアのブルシーロフ攻勢」の解説
3月12日の連合軍軍事会議において、ヴェルダンでフランス軍と激戦を繰り広げているドイツ軍に対してイギリス軍とロシア軍が牽制攻撃することが決定される。ロシア軍は5月15日頃攻撃に出ることとなった。仏ジョフル将軍の要請により3月以降66個歩兵師団、9個騎兵師団半をもってリガ方面で牽制的攻勢を実施したが、思うような戦果を得ることができなかった。さらにロシア南西方面軍は6月4日ガリツィアにおいて、ロシア西方正面軍は6月18日ピンスク北方地域において一大攻勢を実施した。 6月4日のロシア西南方面軍の作戦がいわゆるブルシーロフ攻勢と呼ばれるものである。ブルシーロフ将軍は1916年4月南西正面軍に任命されてガリツィアでの攻勢を計画したが、これまでのロシア軍攻勢の失敗をよく分析して準備した。まずオーストリア軍を混乱させるため攻撃準備射撃は計画的に行う。つまり砲撃はランダムに小休止をませてオーストリア兵が塹壕から出られないようにする。全線でこれと同じ砲撃の方法をとって主攻撃がどこかを悟られないようにして効果的に予備隊を使うのを妨げた。それから多くの線で自軍塹壕を墺軍塹壕から50mあたりまで掘り進め、速やかに前進できるよう前線近くに予備隊が置かれた。またオーストリア軍の塹壕モデルが作られてロシア歩兵はこれによって訓練した。航空写真などによる墺軍砲兵位置の把握などもなされた。 6月12日までに捕虜約20万人、火砲216門、機関銃645挺を獲得して大成功をおさめたが、ロシア軍夏季攻勢の主攻撃たる西方正面軍の攻勢は思わしい結果を残せなかった。しかしながらこの攻勢はドイツ軍の予備兵力を吸引することができ、またオーストリア軍のアジアーゴの戦い(トレンティーノ攻勢)を一時牽制してイタリア軍の危急を救うことができた。ブルシーロフ攻勢については「ブコビナ地方とガリツィア東部を占領して35万の捕虜を得たが、好機を逃したあとのだらだらとした攻勢によって100万兵以上の兵が戦死した。この損失はロシア軍の精神的戦闘力を崩壊させ、その結果として革命と瓦解を招いた」との意見がある。 詳細は「en:Baranovichi Offensive」を参照
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