戦いの後の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 02:00 UTC 版)
この落城の後、備中高松城には宇喜多氏の家老花房正成が入城。関ヶ原の戦いで正成は主君に反し東軍に付いたため江戸時代には旗本に取り立てられた。数年はここに陣屋を構えたが備中国阿曽(現:総社市阿曽)に移ったため備中高松城は廃城となった。 また、秀吉が天下を取った後に清水宗治の子を直臣にし、知行一万石を与えようと述べたが、宗治の嫡男である景治は毛利家に残ることを選んだと言う。『毛利家文書』に景治自身その旨を書き残した書状がある。その後、清水家は萩藩寄組として明治維新まで存続し、維新後は倒幕に功績があったことから、男爵に叙されている。 現在、高松城二ノ丸址に玄妙寺という寺が建立されており、その境内内部が宗治自刃の場所とされており、石碑が立っている。
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