戦いの情況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 06:58 UTC 版)
未だ陣形が整わない茨木・和田連合軍から、郡山城主郡正信が単身で荒木・中川連合軍の陣取る馬塚に出向き、時間稼ぎをしようとした。惟政の息子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。 この時郡正信は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである(『陰徳太平記』)。しかし惟政はこの申し出を全く聞き入れず、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである(『日本史』)。また、進言を聞き入れてもらえなかった正信は、名馬「金屋黒」に乗り戦闘に参加したが、荒木・中川連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった(『陰徳太平記』)。 村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台を与える」という陣礼を出し、清秀が惟政の首を取った。この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。 一方、清秀と惟政が激突している中、茨木軍は手薄となった村重の本陣に突進してきた。しかし、山陰に隠れていた2000兵が茨木軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた(『日本史』)。それでも茨木軍は奮闘し、最後には重朝自身が村重に傷を負わせたが、村重自身に討ち取られたとされる。この時、将軍義昭の家臣となっていた長井道利も討死を遂げている。 司令官を2人とも失った茨木・和田連合軍の残兵は玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子は「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記されている(『陰徳太平記』)。 後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照・右近父子と城の守りを固めた。
※この「戦いの情況」の解説は、「白井河原の戦い」の解説の一部です。
「戦いの情況」を含む「白井河原の戦い」の記事については、「白井河原の戦い」の概要を参照ください。
- 戦いの情況のページへのリンク