高野攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)
高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する 紀伊の一大勢力であった。 高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党5人が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として高野山へ差し向けたが、高野山側はこれを拒否した。8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索を行ったところ、高野山側によって全員殺害された(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。 高野山は朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。 天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。
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