高野参詣の歴史的背景とは? わかりやすく解説

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高野参詣の歴史的背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 10:23 UTC 版)

高野参詣道」の記事における「高野参詣の歴史的背景」の解説

高野山が「参詣すべき霊場」と多く人々認識する契機となったのは、11 - 12 世紀頃における上皇貴族など権力者による高野参詣である。最たる例は、1023年治安3年太政大臣藤原道長1048年永承3年関白藤原頼通1088年寛治2年白河上皇などの参詣である。その背景には「入定信仰」と「高野浄土信仰」がある。空海835年天長9年奥之院入定後、921年延喜21年)に後醍醐天皇空海に「弘法大師」の諡号贈った。この時、東寺長者観賢は、その報告のため高野山登り奥之院の廟窟にて、禅定入ったまま(入定)の空海即身仏)を見て、その姿は普段変わりなく生き生きとしていたと伝えたことから、「弘法大師は今も奥之院生き続け世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰生まれた。これは空海高野山奥之院御廟で、弥勒菩薩この世現れるまで生き人々救済し続けるという信仰である。「高野浄土信仰」は、「一度参詣高野山無始罪障道中滅」というものであり、高野山一度でも参詣すれば、すべての罪が道中において消える、もしくは一度参詣すれば罪が消えるという信仰である。これらの信仰による権力者高野参詣人々大きな影響与え庶民による高野参詣増えた高野山開山当初から存在する表参道であり、主要参詣道だった町石道は、仏塔である町石並び、行(ぎょう)のための道とされ、歩いて登らなければ功徳少ないと信じられ皇族・貴族であろうが、身分の差に関係なく誰もが徒歩聖地高野山」を目指すようになったこのような高野信仰が皇族・貴族参詣始まり武士庶民にまで広まり高野山発展したが、近世以降は、高野山一つ名所として参詣する者も増え、より距離が短く早く参詣できる京大坂道が主要参詣道となった。現在では、電車ケーブルカー乗り継ぐもしくは車で高野山参詣することができるが、かつて徒歩聖地高野山へ登った参詣道古道)が高野参詣道である。 年表主な権力者の高野参詣と高野山との関わり年年900年 宇多法皇参詣 1334年 後醍醐天皇御願による愛染堂建立 1023年 藤原道長参詣 1344年 足利尊氏参詣 1048年 藤原頼通参詣 1389年 足利義満参詣 1088年 白河上皇参詣 1581年 織田信長高野攻め開始翌年信長没) 1124年 鳥羽上皇参詣 1585年 豊臣秀吉和議 1156年 平清盛奉行として大塔落慶 1594年 豊臣秀吉参詣 1169年 後白河法皇参詣 1594年 徳川家康参詣 1207年 後鳥羽上皇参詣 1599年 石田三成経蔵建立 1223年 北条政子金剛三昧院建立 1848年 紀伊徳川家御影堂再建 高野信仰により各時代権力者高野山参詣し、または伽藍建立などに関わった。織田信長高野攻めをするが、後に豊臣秀吉高野山和議し、庇護することに繋がる。

※この「高野参詣の歴史的背景」の解説は、「高野参詣道」の解説の一部です。
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