高野参詣の歴史的背景
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高野山が「参詣すべき霊場」と多くの人々が認識する契機となったのは、11 - 12 世紀頃における上皇・貴族などの権力者による高野参詣である。最たる例は、1023年(治安3年)太政大臣・藤原道長、1048年(永承3年)関白・藤原頼通、1088年(寛治2年)白河上皇などの参詣である。その背景には「入定信仰」と「高野浄土信仰」がある。空海が835年(天長9年)奥之院に入定後、921年(延喜21年)に後醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。この時、東寺長者の観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟にて、禅定に入ったまま(入定)の空海(即身仏)を見て、その姿は普段と変わりなく生き生きとしていたと伝えたことから、「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた。これは空海が高野山奥之院御廟で、弥勒菩薩がこの世に現れるまで生き、人々を救済し続けるという信仰である。「高野浄土信仰」は、「一度参詣高野山、無始罪障道中滅」というものであり、高野山に一度でも参詣すれば、すべての罪が道中において消える、もしくは、一度参詣すれば罪が消えるという信仰である。これらの信仰による権力者の高野参詣は人々に大きな影響を与え、庶民による高野参詣が増えた。高野山開山当初から存在する表参道であり、主要参詣道だった町石道は、仏塔である町石が並び、行(ぎょう)のための道とされ、歩いて登らなければ功徳が少ないと信じられ、皇族・貴族であろうが、身分の差に関係なく誰もが徒歩で聖地「高野山」を目指すようになった。このような高野信仰が皇族・貴族の参詣に始まり、武士や庶民にまで広まり高野山が発展したが、近世以降は、高野山を一つの名所として参詣する者も増え、より距離が短く早く参詣できる京大坂道が主要参詣道となった。現在では、電車・ケーブルカーを乗り継ぐ、もしくは車で高野山へ参詣することができるが、かつて徒歩で聖地・高野山へ登った参詣道(古道)が高野参詣道である。 年表:主な権力者の高野参詣と高野山との関わり年年900年 宇多法皇参詣 1334年 後醍醐天皇御願による愛染堂建立 1023年 藤原道長参詣 1344年 足利尊氏参詣 1048年 藤原頼通参詣 1389年 足利義満参詣 1088年 白河上皇参詣 1581年 織田信長の高野攻め開始(翌年:信長没) 1124年 鳥羽上皇参詣 1585年 豊臣秀吉と和議 1156年 平清盛を奉行として大塔落慶 1594年 豊臣秀吉参詣 1169年 後白河法皇参詣 1594年 徳川家康参詣 1207年 後鳥羽上皇参詣 1599年 石田三成が経蔵建立 1223年 北条政子が金剛三昧院建立 1848年 紀伊徳川家が御影堂を再建 高野信仰により各時代の権力者が高野山へ参詣し、または伽藍建立などに関わった。織田信長は高野攻めをするが、後に豊臣秀吉が高野山と和議し、庇護することに繋がる。
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