高野慎三による検証
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1976年 - 1977年当時、高野慎三はつげの自宅で旅行譚に明け暮れていたが、あるとき偶然に甲州街道が話題に上る。上野原の町の一時代前の雰囲気の魅力とともにつげ義春の口から出たのは犬目宿のことであった。立石の車で道に迷った際の話題であった。鳥沢宿へ行った記憶は確実にあるのだが、犬目や野田尻に関しては曖昧であった。高野はつげとのこの会話から間もなく、甲州街道の踏査を決意する。1970年代のこの当時、観光コースから外れた旧甲州街道は旧街道、旧宿場の雰囲気をよく残していた。その後、年に3-4回は通い、つげに踏査報告をした。1989年刊の『山野記』(梶井純、菅野修、他共著)にはつげのエッセイ『秋山村逃亡紀』が書き下ろされるが、その直前に高野は上野原を初訪し、同時に鶴川宿から野田尻宿までを辿り、野田尻宿のまっすぐに走る旧街道を挟んで軒を並べる木造民家群に感動する。さらに高野は野田尻宿の真ん中に立ち、つげが『猫町紀行』で描写した宿場跡は犬目宿ではなく、ここに違いないと直感する。高野は偶然に1960年代の甲州街道を記録した書物の1冊として『甲斐路の旅』(浅野孝一)というガイドブックを持っていたが、山の紹介が主のその書物の中に、旧甲州街道の情景にも言及した箇所があり、『猫町紀行』の読後に改めて本書を取だしてみると、犬目宿跡の写真が紹介されているのを見つける。『猫町紀行』の中の犬目宿の描写に「どこかでその風景に出会ったことがある」と思いだしたからに他ならなかった。高野は明らかに『猫町紀行』に描写された情景を野田尻宿のものだと推察したが、『猫町紀行』の中の「急に目の前にした光景を見て、ことさら別世界に、人里はなれた隠里に迷い込んだように思えたのだった」という記述に強く惹かれる。 野田尻から徒歩で20-30分街道を西進すると旧道は人一人がやっと通れるほどの細道となり、南側が目も眩むほどの断崖絶壁の「座頭ころばし」と呼ばれる難所がある。そこを過ぎると淋しい村落・新田があり、犬目宿になる。しかし、犬目宿は1970年の大火で町ごと焼き尽くされ、その際には八王子からも真っ赤な夜空が見えたほどであった。従って、『猫町紀行』で描写されたような情景はもともと存在しなかったことが判明する。高野は、つげが見た情景は犬目ではなく野田尻であったと確信する。『甲斐路の旅』には、大火前の犬目宿の様子が写真で記録されているが、舗装される以前の雨降り後の街道は泥んこで、宿内の両側には街道時代のままの民家が並んではいるが、さびれた感じが強く「下町の路地裏のような賑やかさ」からはほど遠く、寂寥感だけが漂っていた。高野が最初に訪問したのは2月であったが、「夕餉前のひとときといったのどかさ」もなく、ひたすらわびしい気配だけがあった。その後、高野は犬目宿を4度訪問している。
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