「無縁」の否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)
比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない ―― このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。 織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは外部に対する独立・中立性の放棄であり、無縁の思想からすれば受け入れられないものだった。こうして比叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。 羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長ほど苛烈では無かったものの、基本的には信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった。もっとも、この時代以前にも、例えば平清盛は朝廷より比叡山攻めを命じられており、また南北朝の争いにおいては比叡山は南朝方を支援するなどしている。不可侵性が犯されたり、非中立的に外部権力との関わりをもったりしたのは、戦国時代が初めてというわけではない。
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