バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現とは? わかりやすく解説

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バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)

モンゴル帝国」の記事における「バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現」の解説

ところがムバーラク・シャーオルガナのもとに至ると、バラク両者押さえてチャガタイ家当主位を奪ってしまった。一方同じ時期オゴデイ家有力者カイドゥは、クビライアリクブケカアン争奪合間に、一連の混乱モンケ粛清によってモンゴル高原から追われ王族その他の勢力糾合し、勢力伸長させていた。カイドゥ度重なるクビライからの召還口実もうけて逃れていたが、1268年についにイミル河畔カイドゥクビライに対して公然と反旗を翻したクビライバラク派遣カイドゥ対す牽制もしくは屈服させる意味合い強かったが、チャガタイ家当主位を奪ったバラクはこれに反してこのオゴデイ家有力者カイドゥ協定を結び、ブハラサマルカンドはじめとするモンゴル皇帝直轄であったマー・ワラー・アンナフルの諸都市接収した。しかし、程なくその配分巡って徐々に対立深めていく。一方チンギス・カンホラズム・シャー朝征討以来マー・ワラー・アンナフル多く権益有していたジョチ・ウルスでは、新当主モンケ・テムルがこれらカイドゥバラク動静強く警戒しカイドゥに対して一軍派遣してこれを牽制した。カイドゥモンケ・テムル側と和平を結び、逆にバラクに対してジョチ・ウルス左翼統帥であるオルダ当主コニチ以下5万騎の援軍をもって破った。 この戦い敗退したバラクチャガタイ家約束された中央アジア取り分主張しカイドゥ側の王族たちを説得してクリルタイ開催訴えた。こうして1269年ジョチ・ウルス代表者ベルケ次弟ベルケチェルらの臨席の下、カイドゥバラク側の王族たちは会盟して中央アジアカアン領を3王家の間で分割したバラクマー・ワラー・アンナフル3分の2残り3分の1モンケ・テムルカイドゥ分割するという取り決めで、なお不足するバラクの分はアムダリヤ川超えてイルハン朝アバカ治めイラン地域奪取することになり、1269年秋にバラクカイドゥ側の王族たちを引き連れてアムダリヤ渡ってホラーサーン地方侵攻したジョチ・ウルスクビライ側と事を構えるつもりはなかったようであったが、現実中央アジア支配下置いているのはカイドゥ率いオゴデイ家と、チャガタイ家およびクビライ派遣した中央アジア遠征軍指揮したバラクであったので、マー・ワラー・アンナフル利権を守るためバラク側の要求応じざるを得なかったのではないかと、現在では考えられている。しかし、途中でバラクは彼らオゴデイ家人々不和になり、加えて1270年7月20日ヘラート近郊のカラ・スゥの地でアゼルバイジャン地方から迎撃出たアバカ軍の総攻撃逢いカラ・スゥ平原の戦い)、大敗北したアバカカラスウ勝利ののち1270年11月7日クビライからの使節団によって正式にイラン地域の支配認めた王冠封冊の賜衣、封冊書を拝領し加えてジョチ・ウルスモンケ・テムルからもハヤブサなどの祝賀献上品受領してイランにおけるフレグ家の支配モンゴル皇帝ジョチ家という二大勢力から正式に認証されることとなった1271年クビライカアン支配する国の国号大元改めた。さらに1271年にはブハラまで敗走したバラク急死しカイドゥ中央アジア最有力となった1274年には日本遠征した(元寇)。1276年クビライ南宋首都杭州降して肥沃な江南支配下においた。 1282年即位したバラク遺児ドゥアクビライに対して反乱起こしたアリクブケ遺児メリク・テムルらはカイドゥ庇護下に入った中央アジア誕生したこの勢力カイドゥ王国などと呼ばれるカイドゥクビライの元と真っ向から対立しモンゴリアおよび中央アジア支配巡って長く抗争続けるが、1301年行われたテケリクの戦い負った傷によって亡くなったカイドゥの死をもってカイドゥ王国有力者となったドゥアカイドゥ遺児チャパル説いて時の君主であるクビライの孫テムル和睦申し出た続いてドゥアは元と結んでチャパル追放オゴデイ・ウルスチャガタイ・ウルス併合しカイドゥ王国中央アジア支配するチャガタイ・ハンに変貌する。 こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争終結しモンゴル帝国東アジア大元ウルス元朝)、中央アジアチャガタイ・ウルスチャガタイ・ハン国)、キプチャク草原ジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)、西アジアフレグ・ウルスイルハン朝)の4大政権からなり、元を統べるカアン盟主とする緩やかな連合国家再編された。

※この「バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現」の解説は、「モンゴル帝国」の解説の一部です。
「バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現」を含む「モンゴル帝国」の記事については、「モンゴル帝国」の概要を参照ください。

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