バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現
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「モンゴル帝国」の記事における「バラクの奪権と「カイドゥ王国」の出現」の解説
ところがムバーラク・シャーとオルガナのもとに至ると、バラクは両者を押さえてチャガタイ家の当主位を奪ってしまった。一方同じ時期にオゴデイ家の有力者カイドゥは、クビライとアリクブケのカアン位争奪の合間に、一連の混乱やモンケの粛清によってモンゴル高原から追われた王族やその他の勢力を糾合し、勢力を伸長させていた。カイドゥは度重なるクビライからの召還を口実をもうけては逃れていたが、1268年についにイミル河畔でカイドゥはクビライに対して公然と反旗を翻した。 クビライのバラク派遣はカイドゥに対する牽制もしくは屈服させる意味合いが強かったが、チャガタイ家の当主位を奪ったバラクはこれに反してこのオゴデイ家の有力者カイドゥと協定を結び、ブハラやサマルカンドをはじめとするモンゴル皇帝直轄であったマー・ワラー・アンナフルの諸都市を接収した。しかし、程なくその配分を巡って徐々に対立を深めていく。一方、チンギス・カンのホラズム・シャー朝征討以来マー・ワラー・アンナフルに多くの権益を有していたジョチ・ウルスでは、新当主モンケ・テムルがこれらカイドゥとバラクの動静を強く警戒し、カイドゥに対して一軍を派遣してこれを牽制した。カイドゥはモンケ・テムル側と和平を結び、逆にバラクに対してジョチ・ウルス左翼の統帥であるオルダ家当主のコニチ以下5万騎の援軍をもって破った。 この戦いに敗退したバラクはチャガタイ家に約束された中央アジアの取り分を主張し、カイドゥ側の王族たちを説得してクリルタイの開催を訴えた。こうして1269年にジョチ・ウルスの代表者でベルケの次弟ベルケチェルらの臨席の下、カイドゥとバラク側の王族たちは会盟して中央アジアのカアン領を3王家の間で分割した。バラクがマー・ワラー・アンナフルの3分の2、残り3分の1はモンケ・テムルとカイドゥが分割するという取り決めで、なお不足するバラクの分はアムダリヤ川を超えてイルハン朝のアバカが治めるイラン地域を奪取することになり、1269年秋にバラクはカイドゥ側の王族たちを引き連れてアムダリヤを渡ってホラーサーン地方へ侵攻した。ジョチ・ウルスはクビライ側と事を構えるつもりはなかったようであったが、現実に中央アジアを支配下に置いているのはカイドゥ率いるオゴデイ家と、チャガタイ家およびクビライの派遣した中央アジア遠征軍を指揮したバラクであったので、マー・ワラー・アンナフルの利権を守るためバラク側の要求に応じざるを得なかったのではないかと、現在では考えられている。しかし、途中でバラクは彼らオゴデイ家の人々と不和になり、加えて1270年7月20日、ヘラート近郊のカラ・スゥの地でアゼルバイジャン地方から迎撃に出たアバカ軍の総攻撃に逢い(カラ・スゥ平原の戦い)、大敗北した。アバカはカラスウの勝利ののち1270年11月7日にクビライからの使節団によって正式にイラン地域の支配を認めた王冠、封冊の賜衣、封冊書を拝領し、加えてジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもハヤブサなどの祝賀の献上品を受領して、イランにおけるフレグ家の支配がモンゴル皇帝とジョチ家という二大勢力から正式に認証されることとなった。 1271年、クビライはカアンの支配する国の国号を大元と改めた。さらに1271年にはブハラまで敗走したバラクが急死してカイドゥが中央アジアの最有力者となった。1274年には日本に遠征した(元寇)。1276年にクビライは南宋の首都杭州を降して肥沃な江南を支配下においた。 1282年に即位したバラクの遺児ドゥアやクビライに対して反乱を起こしたアリクブケの遺児メリク・テムルらはカイドゥの庇護下に入った。中央アジアに誕生したこの勢力はカイドゥ王国などと呼ばれる。カイドゥはクビライの元と真っ向から対立し、モンゴリアおよび中央アジアの支配を巡って長く抗争を続けるが、1301年に行われたテケリクの戦いで負った傷によって亡くなった。カイドゥの死をもってカイドゥ王国の有力者となったドゥアはカイドゥの遺児チャパルを説いて、時の君主であるクビライの孫テムルに和睦を申し出た。続いてドゥアは元と結んでチャパルを追放、オゴデイ・ウルスをチャガタイ・ウルスに併合し、カイドゥの王国は中央アジアを支配するチャガタイ・ハンに変貌する。 こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争は終結し、モンゴル帝国は東アジアの大元ウルス(元朝)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)、キプチャク草原のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)の4大政権からなり、元を統べるカアンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。
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