バラクの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:23 UTC 版)
イル・ガーズィーの甥ヌールッダウラ・バラクは、イル・ガーズィーの許で転戦していたが、1105年にはディヤール・バクルの本拠に戻り周辺領域の平定に努めた。バラクはマラティヤのルーム・セルジューク朝トゥグリル・アルスラーンのアタベクとなり、彼の兄であるコンヤのマスウードに対抗した。これにより1115年にはマラティヤの北北西ハンズィートのハルトペルト城砦を本拠とした。バラクはさらに北方へと進出し、1118年ダニシュメンド朝と同盟して、エルジンジャンのイブン・マンギュジャクおよびその同盟者東ローマ帝国のトレビゾンド太守ガルワスを破った。これによってバラクはユーフラテス上流域に勢力を伸ばし、バラク保護下のトゥグリル・アルスラーンはマラシュ方面へ進出してエデッサ伯国に従属するアルメニア人から領土を奪った。こうしてエデッサとの対立は決定的なものとなる。 バラクは1122年グルジアと、さらに矢継ぎ早にエデッサと戦って伯ジョスランを捕らえた。バラクは救援に赴いたエルサレム王国国王ボードワン2世をも捕虜として、ムスリムの絶賛を浴びた。イル・ガーズィーが亡くなったのはこのころである。1123年アレッポは街の保護者として、イル・ガーズィーの息子スライマーンに代えてバラクを迎えた。このころマルディンのスライマーンの弟ティムルタシュもバラクに仕えるようになり、マルディンもバラクの統治下に入る。 アレッポでは、バラクはシリア・セルジューク朝のスルターン・シャーを追放、ついでハルトパルトの本拠での十字軍捕虜と同地のアルメニア人による反乱を鎮圧した。この留守中に反乱を企てたシーア派とその指導者でもあったイブン・アル=ハッシャーブをも追放している。さらに1124年、ヴェネツィア艦隊とエルサレム王国による包囲に苦しんできたティールに向かおうとしていた。しかしこのとき、マンビジの統治者がエデッサ伯ジョスランと結んで再び自律傾向を示したため、バラクはマンビジ包囲戦に入る。ここではジョスランを打ち破ったものの、バラク自身が矢傷を受けて没してしまう。 バラクの領域は、バラクの指揮下包囲戦に参加していたティムルタシュがマルディンに加えてアレッポを、バラクの一人娘と息子を結婚させていたスクマーンの子でヒスン・カイファーの統治者ダーウードがバラクの故地ハルトパルトを受け継いだ。同年、ティムルタシュは十字軍と同盟してアレッポに迫るシリア・セルジューク朝のスルターン・シャーとドゥバイス・ブン・サダカの圧力を避けてアレッポを見捨て、ボードワン2世を釈放してマルディンへと戻った。以降アルトゥク朝がアレッポを統治することはなかった。 ティムルタシュの放棄したアレッポにはカーディーのイブン・アル・ハッシャーブが戻って、治安回復と防衛に奔走し、モースルのアクスンクル・アル=ブルスキーを招聘した。1125年アクスンクル・アル=ブルスキーはアレッポに入った。彼は翌年暗殺されるが、彼が保護してきたザンギーが後を継ぎ、以降はザンギー朝の一方の中心地としてアレッポはその混乱に終止符を打つことになる。
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