バラクラヴァの戦いの余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:44 UTC 版)
「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の記事における「バラクラヴァの戦いの余波」の解説
ラグラン男爵は戦闘の直後にカーディガン伯爵を責めたが、カーディガン伯爵は上官ルーカン伯爵からの命令を受けたと返答した。ラグラン男爵は続いてルーカン伯爵に軽騎兵を失ったことを責め、ルーカン伯爵はラグラン男爵からの命令を遂行しただけだと返答したが、ラグラン男爵は中将として判断を下すべきだと述べた。いずれにせよ、カーディガン伯爵は傷病兵として本国に送り返され、ルーカン伯爵は非難されないことを保証されて参戦を継続し、11月5日にはインケルマンの戦いで騎兵が支援として投入されたが、ラグラン男爵はその裏で「前進命令に対する何らかの誤解により、中将はどんな危険を冒しても攻撃しなければならない義務があると考えた」(from some misconception of the instruction to advance, the Lieutenant-General considered that he was bound to attack at all hazards、10月28日の報告)と本国に打電した。この報告が公開されると、ルーカン伯爵は激怒して、11月30日の手紙で反論し、さらに手紙を陸軍・植民地大臣の第5代ニューカッスル公爵ヘンリー・ペラム=クリントンに転送した。結局、政府は「どちらが正しいかはともかく」、総指揮官と騎兵指揮官が険悪な関係であってはならないと判断してルーカン伯爵を召還、ルーカン伯爵は1855年2月14日にクリミア半島を発ち、3月初にイングランドに戻ってきた。 本国に到着したルーカン伯爵は即座に軍法会議を求めたが、召還の理由が上官との不和であって、軍事行動における過ちではなかったため拒否された,ref name="ODNB" />。3月19日には貴族院でバラクラヴァの戦いを取り上げたが、さしたる支持を受けられず、代わりに同年に自身の弁護としてA vindication of the earl of Lucan from Lord Raglan's reflectionsを出版した。また3月29日には庶民院の委員会でセヴァストポリへの進軍におけるイギリス陸軍の行動が調べられ、ルーカン伯爵は委員会の会議で自身を弁護した。4月にもカーディガン伯爵とルーカン伯爵がそれぞれ『タイムズ』紙への投書でお互いを批判した。1856年にはクリミア戦争で自身が下した命令や通信をEnglish Cavalry in the Army of the Eastとして出版した。 『アイルランド人名事典』によれば、ルーカン伯爵がスケープゴートにされたことは広く信じられたが、ルーカン伯爵が頻繁に抗議したため大衆からうんざりされたという。大衆の評価がどうであれ、政府からは認められていたようであり、1855年7月5日にバス勲章ナイト・コマンダーを授与された。オスマン帝国からは1等メディジディー勲章(英語版)を、フランスからは3等レジオンドヌール勲章を授与された。 ルーカン伯爵とカーディガン伯爵の関係は後年になっても改善せず、2人は1863年に危うく決闘することになり、同年10月25日に「バラクラヴァの日」(Balaklava day)の晩餐会にルーカン伯爵が招かれると、カーディガン伯爵は出席を拒否した。
※この「バラクラヴァの戦いの余波」の解説は、「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の解説の一部です。
「バラクラヴァの戦いの余波」を含む「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の記事については、「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の概要を参照ください。
- バラクラヴァの戦いの余波のページへのリンク