バラキレフと再び
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 14:54 UTC 版)
「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「バラキレフと再び」の解説
1880年に『ロメオとジュリエット』の最後の改訂を完了したチャイコフスキーは、総譜の写しをバラキレフへ送るのが礼儀だろうと考えた。しかしながら、バラキレフは1870年代初頭に音楽界の一線を退いており、チャイコフスキーとの交流も途絶えていた。そこで彼は出版社のベッセルに対し、写しをバラキレフへ転送してくれるよう依頼する。1年後にバラキレフからの返信があった。その手紙の中で彼はチャイコフスキーへの深い謝意を伝えるとともに、「貴方が素晴らしく上手く扱えると思われる交響曲のプログラムです」として、バイロンの『マンフレッド』に基づく交響曲の詳細な計画案を提示した。その原案は元々スターソフがベルリオーズに交響曲『イタリアのハロルド』の続編としてもらうため1868年に起こしたものであったが、以降バラキレフが管理するところとなっていた。 チャイコフスキーは当初、題材に興味がわかないと言って構想への協力を辞退した。バラキレフは粘った。「もちろんながら『努力をする』ことは必要です」というバラキレフが熱心に勧めたのは「もっと自己批判的な進め方を取ることです、ことを急いではなりません。」2年が経ち、友人であるイオシフ・コテックのもとへ向かってスイスアルプスにいたチャイコフスキーは、『マンフレッド』が舞台とする環境に身を置きながらその詩を再読することで考えを変えることになる。家に帰りつくとバラキレフがスターソフの筋書きから書き上げた草案を手直しし、第1楽章のスケッチに着手したのである。 マンフレッド交響曲はチャイコフスキーが書くことになるあらゆる作品、交響曲第6番『悲愴』さえも凌ぐほどの多くの時間、労力、自己省察を彼にかけさせることになる。また、その時点で彼が書き上げていた作品中最も長大かつ複雑な楽曲となった。筋書きに関してはベルリオーズに負うところがあるのは明らかであったが、それでもチャイコフスキーはマンフレッドの主題を自ら生み出すことができた。7か月にわたる奮闘が終わろうとする1885年9月下旬、彼はバラキレフ宛ての書簡にこう記した。「私は人生で1度も、信じてください、これほど長く熱意をもって働いたことはありませんし、仕事でこれほどまでに消耗を感じたことはありませんでした。この交響曲は貴方の筋書きに沿って4つの楽章で書かれており - お許しいただきたいのですが - そうしたかったのも山々ながら、貴方が提案して下さった調性と推移を全て守ることができたわけではありません(中略)もちろん作品は貴方に献呈いたします。」 交響曲を完成させたチャイコフスキーはそれ以上バラキレフの干渉に耐えることに嫌気がさし、全ての通信を断ち切ってしまった。彼は自作の出版を担っていたユルゲンソンにバラキレフは「狂人」だと思うと伝えている。この絶縁以後、チャイコフスキーとバラキレフは過度に親しげでない、儀礼的な手紙を数通交わしただけであった。
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