アルマの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:44 UTC 版)
「ジョージ・ビンガム (第3代ルーカン伯爵)」の記事における「アルマの戦い」の解説
ルーカン伯爵は5月ごろにトルコに到着したが、6月に軽騎兵がブルガリアに派遣されたときに随行せず、本部にとどまったため、のちにカーディガン伯爵がルーカン伯爵の指揮下にないと主張したときの根拠の1つとなった。その後、ルーカン伯爵はヴァルナに向かい、8月18日に中将への名誉昇進辞令(英語版)を得た。ラグラン男爵はルーカン伯爵に重騎兵の到着を待つよう命じたが、ルーカン伯爵はウェリントン公爵の半島戦争における行動を引き合いに反発、軽騎兵だけでも出撃すべきと主張した。9月19日、カーディガン伯爵率いる軽騎兵2個連隊が渡河してロシア騎兵と戦おうとすると、ルーカン伯爵は自ら2個連隊を率いて増援したが、歩兵の大部隊が伏兵として配置されていることに気づいたラグラン男爵はルーカン伯爵に撤退を命じた。ルーカン伯爵は悔しがり、しかも攻勢に出なかったことを批判され、部下から「ルックオン卿」(Lord Look-on、look onは「傍観」の意味)という不名誉なあだ名をつけられたが、『オックスフォード英国人名事典』はこれを不公平な批判であると評した。9月20日のアルマの戦いで歩兵と砲兵がロシア軍を撃退したとき、騎兵部隊は側面からの襲撃を防ぐために配置されており、敵軍の撤退を受けて追撃を始めるもラグラン男爵に呼び戻され、ルーカン伯爵はまたしても批判された。『オックスフォード英国人名事典』はこの批判も不公平であると評した。『ロンドン・ガゼット』での戦報ではルーカン伯爵率いる騎兵が予備部隊として左翼と後ろからの攻撃を防いだが、地面の状態により騎兵を投入しての攻撃が不可能であると報じられた。
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