破銭運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:41 UTC 版)
当時の貨幣は小額通貨であり、穴あき銭ともいわれるように高額取引では束ねて用いることが多かった。このため、一々ほどいて刻印を鑑定する手間がかかる上、これをおろそかにすれば贋金や沽価の低い唐宋銭が混じりやすく、インフレを招いた。これを「銭の値が卑しくなる」と表現している。政府は東西の市司に命じて物価を統制し、銭の価値を高く固定しようとしたが、このことはかえって安く仕入れた中国銭を素材に両替詐欺まがいの行為を助長させた。品位の低下はこれに拍車をかけた。和同銭に近い大きな中国銭を薄く小さな銭に変造するのはたやすいことである。 さらに問題なのは、新銭の発行ごとに行われた1000%のデノミである。もともと政府の設定した銭の価値に問題があり、新銭の価値が10倍である根拠がなかったため、市民からみれば、貯蔵している旧貨が両替によって10分の1に減ることは、大きな打撃であった。このため、大量に溶解して銅材とし、両替を拒んだのである。たとえば10枚の10円玉を新10円一枚に取り替えられるとすれば、旧10円は1円の価値でしかなくなるので銅にしたほうが得、という理屈である。新10円に100円の価値があると認められなければ、現在でも同様のことが起こりうる。これは和同開珎を始めとして日本の銭貨には中国の開元通宝よりもはるかに高い名目価値が設定され、やがて通用価値が下落したため、新たに発行される銭貨に高い名目価値を設定する目論見があったとする説がある。 さらに、前述したように、当時の製錬技術では、銅鉱石のなかでも日本で大量に産出する黄銅鉱など硫化銅を成分とするものは利用できず、孔雀石、黒銅鉱など酸化銅を成分とする限られた鉱石しか利用できなかった。日本各地の酸化銅鉱山では深刻な資源の枯渇にさらされており、銅の価値は上がっていた。少なくとも数億枚は発行が確認されている[要出典]銭が、いくら経済発展があるとはいえなかなか回収できず、品位を下げざるをえなかったのは、破銭(銭を溶かして銅地金として利用する行為)が広く行われたためと理解される。 これに対し984年(永観2年)には「禁破銭令」が出される事態となり、新銭発行が極めて困難な状況になった。この禁令は社寺などに出されていることから見ても、朝廷が反対できないよう、銅灯篭など「国家安泰を祈願するため」の仏具に事寄せて溶解する方式が取られたのであろう。この結果、皇朝銭の現存枚数は記録と比較しても極めて少ないものとなり、特に後期のものは低品質の影響で錆び、刻字が読めるものはごく稀で現在の古銭市場ではかえって莫大な値打ち(数万円から数百万円程度)を招いているほどである。 加えて、当時の日本の支配層というべき後世平安貴族と称される人々が今日でいう経済学の知識を持ち合わせていなかった点も流通不振の原因であった。乾元大宝発行直後の959年(天徳3年)4月8日に新造された銭を伊勢神宮など11社に奉納して流通を祈願(『日本紀略』)し、986年(寛和2年)6月16日には諸社諸陵に銭の流通の祈祷(『本朝世紀』)させ、翌987年(永延元年)11月27日にも十五大寺に対して同様の命令(『日本紀略』)を出している。そして、987年(永延元年)3月16日には上賀茂神社の鳥居脇から和同開珎・万年通宝・神功開宝7合わせて782枚が発見されたことが朝廷に報告され、朝廷ではこれを流通させていいのかを神祇官・陰陽寮に対して占わせた(『日本紀略』)という。ところが、この時の事を詳細に記した藤原実資の日記『小右記』によれば、その古銭は鼠が鳥居脇から掘り出したという不自然な方法で発見され、しかも古銭の流通とともに新銭発行の可否を占わせたことが記されている(永延元年3月14・16日条)ことから、古銭発見そのものが新銭発行を推進する立場からの一種の「やらせ」行為があったとみられている。しかも、当時の乾元大宝よりも大きく良質な古銭を流通させた場合に本来過去の銭の10倍の価値で通用するとされていた乾元大宝の価値が暴落してしまうという問題については全く認識されていなかった。当時の支配層が経済と銭の関係に関する知識が無かったために銭の流通不振の原因を理解しておらず、対策も持ち合わせていなかったためにひたすら神仏の加護によって事態を解決しようとしていたことを示している。
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