ナバラ王位を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:35 UTC 版)
「テオバルド1世 (ナバラ王)」の記事における「ナバラ王位を継ぐ」の解説
1234年、母方の叔父のナバラ王サンチョ7世の死去によりナバラ王家が断絶した際、母ブランシュがサンチョ7世の妹だったことから、ティボー4世がテオバルド1世としてナバラ王位を継承した(アラゴン王ハイメ1世も候補者だが辞退した)。この相続によって財政的には非常に豊かになり、1230年特許状も財政安定に寄与したため、以後は概ね平和な時代を過ごした。しかし1239年の十字軍参加で財政が再び危機に陥ったり、1245年にパンプローナ司教と領地収入で争いになって破門されたり、1247年にローマへ行き教皇へ許しを請い破門を解除してもらう、金策のため両替商にトロワの市場からの収入を5年間前貸しして、商品売上税と軽罪の罰金を返済に充てるなど、晩年でも重大事件を起こしシャンパーニュを動揺させた。またナバラは慣習法(フエロ)や身分制議会が幅を利かせ、そちらに気を配らなければならなかった。 1238年にはテオバルド1世は聖地エルサレムへの遠征軍を率いた(バロン十字軍(英語版))。これに先立ち、皇帝フリードリヒ2世は聖地へ赴き戦いでなく交渉でエルサレムを獲得したが(第6回十字軍・破門十字軍)、対立する教皇グレゴリウス9世はこれを敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想して「公式な」十字軍を送ろうとした。しかし頓挫し、テオバルド1世ほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったものである。 しかし、1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。すでにエルサレムその他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、テオバルド1世らはアッコの宮廷で詩をよんで過ごし、アスカロンで築城をした。彼らはカイロとダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉によりヨルダン川と地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、ハッティンの戦い以前に匹敵するほどにした。これは領土的な成果としては第1回十字軍に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果であり、テオバルド1世の遠征前の意図とは異なった。1240年末、イングランドからコーンウォール伯リチャードが到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌いパレスチナを去った。グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。 1253年、パンプローナの王宮で死去。52歳だった。3度目の妻マルグリットとの間に生まれた長男のテオバルド2世(ティボー5世)がナバラとシャンパーニュを継いだが幼少のため、1256年までマルグリットが摂政として統治した。
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